凄い眼
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工場こうぢやうの奧おくに疊たゝみを敷しいた一室ひとまがある。狹せまい一方ぽう口ぐちで丁度ちやうど袋ふくろのやうだ。滅多めつたに掃除さうじもせねば隅々すみ〴〵には埃ほこりが積つもり、壁かべは一體たいに黑くろずんでゐる。棚たなにある磨滅まめつした活字くわつじ、開ひらいてる傘からかさ窄すぼめてる傘からかさ、散ちらばつてる衣服きものや帶おび、この居室ゐまにある者ものに一ひとつとして汚よごれめのない者ものはない。それに空氣くうきの流通りうつうは惡わるい。時候じこうは梅雨つゆで二三日にち來らい鮮あざやかな日光につくわうが窓まどガラスを通とほつたことはない。異樣ゐやうの臭氣しうきが室内しつないに漲みなぎる。
しかしこの廢物はいぶつ同樣どうやうの居室ゐまも、數多あまたの人ひとに利用りようされてゐる。騷さわがしい社會しやくわいの隱かくれ家がとなつてゐる。仕事しごとに疲つかれた老おいたる社員しやゐんが、こつそり此處こゝに忍しのんで、肱枕ひぢまくらで腰こしを叩たゝいてゐることもある。丸髷まるまげの女工ぢよこうが火鉢ひばちの前まへに立膝たてひざをして二三服ぷく煙草たばこを吸すうて行ゆく。夜勤やきんの四五人にんがジメ〳〵した座蒲團ざぶとんを取捲とりまいて、片肌かたはだ拔ぬいで花札はなふだを弄もてあそぶ。折々をり〳〵は艶なまめかしい言葉ことばさへ聞きかれるさうだ。
そして集金しふきん掛がゝり帆田ほだ常造つねざうは十數年すうねん來らい此處こゝに起臥おきふししてゐる。年齡としは五十を越こしたばかりだが、顏かほが萎しなびて頰ほゝが凹くぼみ、櫛梳くしけづらぬ髮かみは野生やせいの雜草ざつさうの如ごとく、星明ほしあかりに黃きばんだ痩腕やせうでを投なげ出だして寢ねてゐる姿すがたはこの世よの人ひととも思おもはれぬ。朝あさは職工しよくこうが威勢いせいよく入はいつて來きて、周圍まはりで騷さわぐのに目めを醒さまされ、ヒヨロ〳〵と起上おきあがつて、足あしを引ひきずり匐は ふやうにして階子段はしごだんを下おりる。顏かほを洗あらふと裏うらの屋臺店やたいみせで鹽餡しほあんの大福餅だいふくもちを三つ買かつて來きて、應接所おうせつじよか車夫しやふ溜だまりで、顏かほ中ぢゆうをモグ〳〵させて食くふ。喰くうてしまふと水道すゐだうの水みづを茶椀ちやわんに一杯ぱい呑のんで、自分じぶんの居室ゐまへ歸かへる。それから外出そとでの身仕度みじたくをして草鞋わらじを穿はき、風呂敷ふろしきを脊負せおひ、細ほそい竹たけの杖つゑをついて、トボ〳〵と集金しふきんに廻まはる。雨あめが降ふると番傘ばんがさを竹たけの杖つゑに代かへるのみで、一 日にちたりとも休やすんだことがない。吹ふけば飛とぶやうな身體からだで重おもさうな傘かさをかついで、風雨ふうゝを衝ついて步あるいてゐるのは、外目よそめには悲慘みじめに感かんぜられるが、當人たうにんは苦くにもしない。命めいぜられた通とほりに賣捌店うりさばきてんを順じゆんぐりに廻めぐつて、夕暮ゆふぐれには時刻じこくを違たがへずに歸かへつて來くる。それから足あしを濯すゝいで、晩餐ばんめしに取掛とりかゝるのだが、晩餐ばんめしも朝あさと同おなじく一ひとつ一錢せんの大福だいふくか鐵砲卷てつぱうまき、只たゞ朝あさは生水なまみづで濟すますのに、晚ばんには小使こづかひ 部屋べやから暖あたゝかい茶ちやを貰もらつて來きて飮のむだけ異ちがつてゐる。夜よるはこの居室ゐまには不似合ふにあひな電燈でんとうの下したに腹這はらばひになつて、珠盤そろばんを前まへに帳簿ちやうぼを調しらべ、一錢せんの相違さうゐもないのを幾度いくたびも見屆みとゞけて、初はじめて安心あんしんしてごろり﹅﹅﹅と橫よこになる。尤もつとも時々とき〴〵は自分じぶんの財產ざいさん調しらべもするので、胴卷どうまきの金庫きんこから幾重いくへにも白紙はくしで包つゝんだ紙幣しへいを取出とりだし一枚まい々々〳〵調しらべて押頂おしいたゞき、又また元もとの通とほりに收をさめて 胴卷どうまきを枕まくらの下したにかくして眠ねむる。この財產ざいさん調しらべの折をりには、人目ひとめを憚はゞかるのと悅うれしいのとで元氣げんきのない目めも活々いき〳〵して來くる。貯蓄額ちよちくがくはせい〴〵二三百圓ゑんであらうが、社員しやゐんの噂うはさでは千圓ゑんには逹たつしたと定きめられてゐる。費用つひへを恐おそれて妻つまを離緣りえんし子こをも勘當かんだうして、獨ひとりぼつちで食くふ者ものも食くはずに貯蓄ちよちくして何なににするのであらうとは、若わかい社員等しやゐんらの疑問ぎもんで、屡々しば〳〵調戯からかひ半分はんぶんに聞きいて見みるが、彼かれは薄氣味うすきみ惡わるく笑わらふのみで相手あひてにもしない。一日にちの仕事しごと――食事しよくじもこの人ひとには樂たのしみではなくて仕事しごとの一ひとつだ――を終をはると、居室ゐまの片隅かたすみに他人ひとの邪魔じやまにならぬやうに煎餅蒲團せんべいぶとんを額ひたひまで被かぶつて寢ねる。寢ねてからは只たゞ翌日あすを待まつばかりで、側そばで誰だれが何なにをしてゐようと、少すこしも心こゝろに留とめぬ。輪轉機りんてんきの音おと、植字歌しよくじうた、雨あめの音おと、嵐あらしの響ひゞき、職工しよくこうの喧嘩けんくわも口論こうろんも、皆みな老人らうじんの耳みゝを煩わづらはさずに消きえて行ゆく、睡ねむりを妨さまたぐる者ものもない。
所ところがこの二三日にち、帆田ほだ老人らうじんは腰こしのあたりにビリ〳〵微かすかな疼痛いたみを感かんじて、容易よういに眠ねつかれぬ。かねて醫藥いやくの料れうにと物干臺ものほしだいで乾かはかした蕺草どくだみ枇杷びはの葉はなどの藥草やくさうを煎せんじて呑のんでも利目きゝめがない。で、今日けふ――六月ぐわつ二十三日にち――も蒲團ふとんへ橫よこになると自分じぶんで腰こしを撫なでゝ小聲こごゑで呻吟うめいてゐたが、不圖ふと枕許まくらもとで自分じぶんを呼よぶ聲こゑがする。
「君きみ一ひとつお賴たのみがあるんだがね」と、夜勤やきんの宇野うのが靴くつのまゝ疊たゝみの上うへに立たつて、「今いま香川かがはから電話でんわが掛かゝつたんだが、赤坂あかさかで飮のんで金かねが足たらぬので歸かへれんそうだから、君きみ迎むかへに行いつて吳くれ玉たまへ」と云いふ。
帆田ほだは白布しらぬのの夜具やぐから乗のり出だし、顏かほを顰しかめて宇野うのを見みたが、暫しばらく返事へんじをしない。
「ねえ君きみ行いつて吳くれ玉たまへ、金かねは今いま會計くわいけいから借かりて持もつて來きてるんだ。使賃つかひちんは出だすよ」
「行いつてもえゝが、今夜けふは氣分きぶんが惡わるいでなあ」と、皺枯しやがれ聲ごゑで云いつた。
「二十錢せん出だすよ、一時間じかんで行いつて來こられるんだから、先日こなひだよりや割わりがいゝよ」
帆田ほだは尙なほ躊躇ちうちよしてゐたが、やがて、
「ぢや行いかうかい」と、蒲團ふとんから匐はひ出だした。寢衣ねまきは着きず菱形ひしがたの腹當はらあてのみを着つけ、脊骨せぼねは高たかく現あらはれてゐる。破扉やれドア二ふたつを繼つぎ併あはせた衣桁いかうから衣服きものを卸おろして、ゆる〳〵身體からだに卷まきつけ、胴卷どうまきをぐつと締しめ、尻端折しりはしをつて出でて行いつた。糠ぬかのやうな五月雨さみだれの降ふつてゐる中なかを傘かさもさゝず、電車でんしやにも乗のらぬ。小石こいしに躓つまづいても倒たふれさうな足あしを踏占ふみしめ〳〵、竹たけの杖つゑを手賴たよりに赤坂あかさかまで往復わうふくした。
二十錢せん銀貨ぎんくわを財布さいふに入いれ、腰こしの疼いたみを我慢がまんして步あるいたが、次第しだいに疲つかれて、社しや近ちかくなると途みちにへたばり﹅﹅﹅﹅そうになる。喉のどは渇かはいて來くる。そしてふつと﹅﹅﹅﹅酒さけが飮のみたくなつた。酒さけと云いふもの月つきに一度ど飮のむことも稀まれだが、今夜こんやはよく〳〵堪たへがたくなつて、使賃つかひちんの半分はんぶんを捨すてるつもりで、ギヨロ〳〵見みまはした。酒屋さかやもビアーホールも左右さいうにあれど、電燈でんとうに輝かゞやいて美うつくしく、氣臆きおくれがしてとても入はいれそうにない。で、わざ〳〵社しやの前まへを行過ゆきすぎ迂道まはりみちして、大根だいこん河岸がし向むかうの繩暖簾なはのれんを潜くゞつた。ランプは薄暗うすぐらく、土間どまは連日れんじつの雨あめに濕しめり、腐くさつた臭にほひが漂たゞようてゐて、外ほかに客きやくは一人ひとりもゐない。彼かれはべた〳〵汚よごれた腰掛こしかけにぐつたり身體からだを曲まげて座すわり、燒酎せうちうを啜すゝつた。一杯ぱいが五錢せんだ。
手てについた滴しづくを頰ほゝになすくり、十五錢せんの釣錢つりを財布さいふに入いれて戶外そとへ出でたが、頭あたまも足あしも一緖しよにふら〳〵﹅﹅﹅﹅する。手拭てぬぐひで鉢卷はちまきをして細ほそい雨あめの中なかを踊をどるやうな手てつきで通とほつて
「ア、コラ〳〵」と皺枯しやがれ聲ごゑで拍子ひやうしを取とつて社しやへ入はいつた。
「大變たいへん景氣けいきがいゝね、君きみが酒さけを飮のんだのは初はじめて見みた」
と、宇野うのは微笑にこ々々〳〵して云いつた。
帆田ほだは「へゝゝ」と笑わらつて奧おくへ行ゆきかけたが、又また後戾あともどりして、懷ふところから鉛筆えんぴつの受取書うけとりがきを宇野うのに渡わたした。
「受取うけとりなんか入いらないのに」
「でも間違まちがひがあつちやならん」
と云いつて、帆田ほだは又また「ア、コラ〳〵」を續つゞけて、自分じぶんの居室ゐまへ入はいると、電燈でんとうの側そばで職工しよくこうが四人よにん花札はなふだを並ならべ、銅貨どうくわの音おとをさせてゐた。
物珍ものめづらしそうに上うへから覘のぞくと、その中うちの一人ひとりが、
「帆田ほださん明日あすまで五十錢せんばかり借かして吳くれませんか」
と、顏かほを上あげた。
帆田ほだはへゝゝと云いつたきり、隅すみの寢床ねどこへ轉ころげ込こんだ。濡ぬれた衣服きもののまゝ鉢卷まちまきをも取とらずグツスリ睡ねてしまつた。
それから一時間じかん、香川かがはが赤あかい顏かほをして、ビシヨ濡ぬれで歸かへつて來きた。上衣うはぎを脫ぬいで黑くろずんだ肉色にくいろのシヤツ一枚まいになり、宇野うのと賑にぎやかに話はなしてゐたが、夜よは更ふけて、周圍あたりも靜しづかに、繁吹しぶきに曇くもつた玻璃窓ガラスまどから、柳葉りうえうの風かぜに亂みだれてゐるのが見みえる。
「さあ歸かへらうか、電車でんしやのある中うちに」と、宇野うのは椅子いすを離はなれた。
「僕ぼくも寢ねようか」と、香川かゞはは眠ねむそうな目めで時計とけいを見みて欠伸あくびをした。
「可愛かあいそうだね、そんな大おほきな身體からだをして宿やどるに家いへなしぢや、」
「うゝん」
宇野うのの靴くつの音おとが消きえると、香川かゞはは椅子いすを二脚きやくづゝ兩手れうてで提さげて、隣となりの豫備よび應接室おうせつしつへ行はいつた。此處こゝには新聞しんぶんの綴込とぢこみが保存ほぞんされ、テーブルと椅子いすが据すゑつけられてゐる。光ひかりは廊下らうかの電燈でんとうが隅すみの方はうから薄うすく照てらすばかり。香川かゞははテーブルを片寄かたよせ、椅子いすを四脚きやくづゝ二列れつにくつゝけて並ならべ、その上うへに毛布けつとを敷しき、厚あつい冬夜具ふゆやぐをかけ、素裸すつぱだかになつて藻もぐり込こんだ。書物しよもつを枕まくらに首くびだけ出だして寢ねてゐたが、蒸暑むしあつくて身體からだが汗あせばんで來くるので、我知われしらず夜具やぐを腰こしから下したへ押おしのけ、胸毛むなげのある赤あからんだ胴どうを曝さらし、一ひとつ二ふたつ蚊かの襲おそふのも知しらずに眠入ねいつた。
夜よは更ふけて電車でんしやも絕たえ、街上がいじやうは靜しづかに、雨あめは或あるひは急きふに或あるひは緩ゆるく降ふりつゞけてゐる。香川かゞはは酒さけの醉よひに若わかい血汐ちしほの心こゝろよくめぐつて、夢ゆめも見みず、片足かたあしを投なげ出だして、太ふとい緩ゆるい息いきをして眠ねむつてゐる。帆田ほだは一時じ忘わすれてゐた疼痛いたみの又またも起おこつては、屡々しば〳〵夢ゆめを破やぶられて呻吟うめいてゐる。
工場こうぢやうの奧おくの電燈でんとうも消けされた。暗くらい中なかに老人らうじんの低ひくい呻吟うめきと香川かゞはの高たかい鼾鼻いびきとが漂たゞようてゐた。その間あひだに階下したでは輪轉機りんてんきの音おと、新聞しんぶんを積出つみだす音おとがしてゐる。
空むなしき編輯局へんしうきよくには時計とけいが一時じを打うち、二時じを打うつ。三時じを打うたんとした頃ころ、香川かゞはは口くちをもが〳〵させ唾つばきを呑のんでゐたが、やがて鼻はなを鳴ならして深ふかく息いきを吸すひ、目めを細ほそくして寢返ねがへりをした。喉のどが乾かはく。
で、椅子いすを脫ぬけ出でて、柱はしらの釘くぎに釣つるした洋服やうふくの上衣うはぎを裸身はだかみに纏まとひ、階下したへ驅かけ下おりて水道すゐだうの水みづをガブ呑のみして歸かへつた。
此頃このごろは癖くせになつて今いま時分じぶんに目めが醒さめる。今夜こんやは酒さけの勢いきほひで睡過ねすごしたが、それでもまだ短みじかい夜よるの明あけんともせぬ。空氣くうきは寢ねた間まに冷ひえて來きて、身體からだがゾク〳〵する。彼かれは嚔くさめをした。椅子いすの足あしにからまつてる夜具やぐを引上ひきあげて首くびまで被かぶつた。
天井てんじやうの黃きいろい紙かみが垂たれ、連日れんじつの雨あめに黴臭かびくさい香にほひが、締切しめきつた居室ゐまの中うちに何處どこからともなく湧わき出でて來くる。
彼かれの目めは冴さえて再ふたゝび睡ねつかれぬ。筋肉きんにくの逞たくましい腕うでに力ちからを籠こめ、脊延せのびをして、
「おれも何時いつになつたら滿足まんぞくに疊たゝみの上うへに寢ねられることか」と思おもつた。グツと夜明よあけまで睡ねれゝばよいが、暗くらい中うちに目めが開あくと、屹度きつとこの惡念あくねんに取とりつかれる。殊ことに醉よつて騷さわいだ晚ばんはひどい。
しかし醉よつた間あひだに何なにを唄うたつたか、何なにを喋舌しやべつたか、何どんなにして女をんなと戯たはむれたか、彼かれの頭あたまにはハツキリ殘のこつてゐない。只たゞボンヤリ「面白おもしろかつた」と云いふ感かんじが浮うかんで來くる。それにつれて、「明日あすの辨當代べんたうだいもなくて、こんな事ことをしてゐたつて」と云いふ感かんじが激はげしく胸むねに響ひゞゐて來くる。
彼かれは又また强つよい嚔くさめをした。それが淋さびしい居間ゐまに鳴なり渡わたる。
「まだ夜よの明あけるに間まがあらう」と、頭あたまを持上もたげて玻璃ガラス越ごしに廊下らうかを見みると、工場こうばの入口いりくちからコソ〳〵と草履ざうりの足音あしおとが聞きこえる。外そとは雨あめで暗くらい、足音あしおとは次第しだいに近ちかづいて寢室しんしつの側そばまで來きた、「今いま時分じぶん誰だれだらう」と疑うたがつて、薄氣味うすきみ惡わるく思おもつて見みてゐると、薄光うすびかりに幽靈ゆうれいのやうな帆田ほだの半身はんしんが現あらはれた。幽かすかに呻吟うめきながら階子段はしごだんの手摺てすりに凭もたれた。
香川かゞははこの痩やせさらぼへる老人らうじんが、自分じぶんと同おなじように一人ひとりぼつちで、奧おくで寢ねてゐることを思おもひ出だした。で、ドアを開あけて首くびを出だし、
「お爺ぢいさん、何なにをしてる」と、陽氣やうきな聲こゑで問とうた。
「腹はらが痛いたくつて」と、帆田ほだは牡蠣かきのやうな目めを向むけて、虫むしの音ねで云いふ。
「そうか困こまつたね、醫者いしやでも呼よんで來こようか」
「なあにそれにや及およばん」
帆田ほだは匐はふやうにして階下したへ下おりた。厠かはやへでも行いつたのだらう。
香川かゞはは階子段はしごだんの隅すみの玻璃ガラス窓まどを開あけて冷つめたい空氣くうきを吸すうた。暗澹あんたんたる雲くもは低ひくい屋根やねから屋根やねへ垂たれて、曙光しよくわうはまだ堰せき止とめられてゐる。
彼かれは再ふたゝび寢床ねどこへ歸かへつたが、帆田ほだ老人らうじんの事ことが氣きになる。あれで金かねばかり溜ためてゝ何なにをするんだらう。家いへもなく、病氣びやうきの看護かんごもされず、紙幣さつを抱だいて死しんでしまう。それつきりだ。それ以上いじやうになすべきこともないのだ。しかし自分じぶんは歲としも若わかい、身體からだも强つよい、爲なすべきことが多おほい。爲なすべき時ときに何なにもせず、徒いたづらに帆田ほだのやうな骸骨がいこつになるのは無念むねんだ。「あゝ金かねが欲ほしい」帆田ほだには無用むようの金かねだが、自分じぶんには生いきて役やくに立たつ。隣となり同士どうしで寢ねてゐて、老人らうじんは何時いつ死しぬかも分わからぬ。財產ざいさんの相續人さうぞくにんもなく、財產ざいさんの高たかも知しつた人ひとはない。
で、香川かゞはは夜具やぐで顏かほを蔽おほうて、それからそれと雜念ざつねんに襲おそはれてゐたが、周圍まはりの騷々さう〴〵しくなるに氣付きづいて、首くびを出だすと、何時いつの間まにか夜よは明あけて、小使こづかひが掃除さうじをしてゐる。
香川かゞはの雜念ざつねんは搔かき消けす如ごとく消きえてしまう。で、元氣げんきよく起おきて、洋服やうふくを着つけ、顏かほを洗あらつて後のち、髯ひげを捻ひねりながら、無心むしんに社内しやないをぶら﹅﹅ついてゐると、應接室おうせつしつに帆田ほだの後姿うしろすがたが見みえる。朝餐あさめしを食くひながら、前まへに算盤そろばんを置おいて帳簿ちやうぼを調しらべてゐる。
香川かゞはが後うしろから近ちかづくと、老人らうじんは驚おどろいたやうに胸むねに手てを當あてゝ振向むりむいた。
「もう病氣びやうきはよくなつたのかね」
「もう大丈夫だいじやうぶだ」
「でも大事だいじにせんといかんよ、一日にち位くらゐ休やすんでもいゝだらう」
「はゝゝ、休やすむ譯わけにも行いかんでな」
「僕ぼくが代理だいりで廻まはらうか、僕ぼくは君きみに肖あやかつて金持かねもちになりたいから」
帆田ほだは鹽餡しほあんの大福だいふくを豆粒まめつぶ程ほどに千切ちぎつては口くちに入いれて、相手あひてに耳みゝを貸かさず、震ふるへる指先ゆびさきで算盤そろばんを彈はじいてゐた。
「君きみは僕ぼくを養子やうしにして吳くれんかね、二人ふたりで家うちを持もつて稼かせいだ方はうがいゝぢやないか、僕ぼくは親爺おやぢがないんだから、君きみを實じつの親おやのやうにして孝行かう〳〵するよ、ねえ、その方はうがいいぢやないか」と、香川かゞはは笑わらひながら五月蠅うるさく云いふので、帆田ほだは物ものをも云いはず、帳簿ちやうぼを抱いだいて應接所おうせつしよを出でて行いつた。
一時間じかん後ごには帆田ほだは草鞋わらじ脚絆きやはんの身裝みづくりをして、集金しふきんに出でかけた。二時間じかん後ごに香川かゞはは車くるまに乗のつて政黨せいとう本部ほんぶや官省くわんしやうを廻まはつた。
この日ひ帆田ほだは一手柄ひとてがらをしたつもりで新聞しんぶんの材料たねを持もつて來きた。云いふ事ことがボンヤリしてよく要點えうてんを得えないが、何なんでも本鄉ほんがうの弓町ゆみちやう邊へんで人殺ひとごろしがあつたのださうだ。被害者ひがいしやは高利貸かうりかし、殺害さつがいの原因げんいんは借金しやくきんを催促さいそくしたからだと云いふ。
「老爺おぢいさん、又また夢ゆめでも見みたのだらう」
「先月せんげつも公園こうえんで首くびくゝりがあつたつて知しらせて來きたが、あれでも社員しやゐんと云いふ意識いしきがあるからだらう。態々わざ〳〵知しらせに來くるだけ感心かんしんだ」
「首くびくゝりか人殺ひとごろしか、何時いつかも下くだらない小泥棒こどろぼうの噂うはさを持もつて來きた。老爺おぢい碌ろくな事ことを見みないんだね」
と、三面めんの連中れんちうはあまり取合とりあはず、探訪たんぼうをも特派とくはしなかつた。
帆田ほだは顏かほと足あしとを水道すゐだうで洗あらつて、自分じぶんの居間ゐまへ上あがつた。擦すれちがひに歸かへつて行ゆく職工しよくこう、入はいつて來くる職工しよくこう、階子段はしごだんは傘かさの雫しづくでズブ濡ぬれになつてゐる。日ひは早はやく暮くれて、電燈でんとうはジメ〳〵した疊たゝみを照てらしてゐる。老人らうじんは例れいによつて帳簿ちやうぼ調しらべをしようと思おもつたが、疲勞ひらうと腹はらの痛いたみに弱よわつて、晩餐ばんめしも食くはずに寢床ねどこへ入はいつた。何なんとなく寢苦ねぐるしい。それに晝ひるの人殺ひとごろし騷さわぎが折々をり〳〵思おもひ出だしたように胸むねに浮うかぶ。
で、長ながい間あひだ眠ねつ醒さめつした揚句あげく、眞夜中まよなか頃ごろ人氣ひとけのないのを見みて、藥湯やくとうを飮のみ、唯一ゆゐいつの樂たのしみの財產ざいさん調しらべを初はじめた。
「老爺おやぢさん、淋さびしいだらう」と、香川かゞはは突如だしぬけに入はいつて來きた。酒さけの息いきを吐はいてゐる。帆田ほだはモグ〳〵口くちの中なかで云いつたが、それは香川かゞはには聞きこえない。
「いよ〳〵工場こうばも建增たてましをすることに决きまつたそうだから、この部屋へやも壞こはされるのだらう。そしたら老爺おぢいさんも何處どこかへ立退たちのかなくちやなるまい、どうするつもりかね」
と、詰責きつせきするような調子てうしで問とうたが、老人らうじんは何なんとも答こたへない。心こゝろでは只たゞ自分じぶんの樂たのしみの妨害者ぼうがいしやを怒いかつてゐた。工場こうぢやう建增たてましの噂うはさは時々とき〴〵老人らうじんの耳みゝにも入はいつて來くるが、それが別段べつだん刺激しげきをも與あたへない。過去くわこと將來しやうらいはこの老人らうじんの衰おとろへた頭あたまを惱なやますに足たらぬのである。
で、香川かゞはの去さつた後のちは、何なにか不安ふあんらしく、有合ありあはせの板片いたぎれで入口いりくちを蔽おほうて眠ねむりに就ついた。翌朝よくてうも雨あめで、顏かほを見みると人々ひと〴〵は皆みないやな天氣てんきを歎たんじてゐたが、帆田ほだは獨ひとり默だまつて仕事しごとに出でた。衰弱すゐじやくせる上うへに氣候きこうの不順ふじゆんに害そこなはれて、顏かほは死人しにんのようであるが、誰たれも怪あやしむ者ものはなく、氣遣きづかつてやる者ものもない。
香川かゞはは尙なほ夜中よなかに目めの醒さめる癖くせが止やまぬ。醒さめると雜念ざつねんが起おこる。雜念ざつねんの中うちには帆田ほだ老人らうじんが織おり込こまれる。かの無用むようの財產ざいさんは自分じぶんの手てにあらば幸福こうふくに使つかへるのだとの思おもひは夜々よゝに嵩かさまつて來くる。男をとこ一匹ぴき世よの中なかに活躍くわつやくするの地步ちほもつくれるとも思おもはれる。そして香川かゞはは老人らうじんの牡蠣かきのやうな凄すごい眼めを暗中あんちうにも思おもひ浮うかべるようになつた。二人ふたりは何なんとなく關係くわんけいがあるやうな氣きがする。宿世しゆくせの緣ゑんが成立なりたつてゐるやうな氣きがするのであつた。
降ふるか曇くもるかの鬱陶うつとうしい梅雨期ばいうきがつゞく。その中うちに老人らうじんは衰弱すゐじやくを重かさねて、步あゆむにも堪たへかね、或ある晚ばん階子段はしごだんで倒たふれたなり、遂つひに床とこに就ついて起おき得えなくなつた。
小使こづかひに粥かゆを煑にて貰もらふばかりで、誰だれにも顧かへりみられず看護かんごされず、殆ほどんど存在そんざいをも認みとめられずに、幽かすかな呻吟うめきと昏睡こんすゐとを續つゞけてゐた。
只たゞ香川かゞはのみは半なかば好奇心かうきしんから、時々とき〴〵見舞みまつてやるが、老人らうじんは不快ふくわいな目めを向むけて、少すこしも喜よろこぶ風ふうはない。恨うらめしいやうな恐おそろしいやうな顏かほをして、側そばへ寄よられるのを厭いやがり、痩腕やせうでで防禦ばうぎよするやうな身構みがまへをすることもある。或ある晚ばんは夢心地ゆめごゝちで、「この野郞やらうまだおれを意地いぢめに來くるか、もう親おやでないぞ、子ことは思おもはんぞ」と叫さけんで、尙なほ不明瞭ふめいれうな聲こゑで獨言ひとりごとを云いつた。香川かゞはは理由わけは分わからないが、何なんとなく恐おそろしくなつて逃にげて歸かへつた。そして老人らうじんは職工しよくこうなどが幾いくら周圍まはりで立騷たちさわがうと、自分じぶんを冷ひやかしてゐやうと、無感むかん無覺むかくでゐるが、香川かゞはを見みると面相めんさうが變かはつて來くる。
「何故なぜだらう」と、香川かゞはは怪あやしんで宇野うのに話はなした。
「何なにか惡わるいことをしたんぢやないか、金かねでも借かりたんぢやないか」
「あの老爺ぢいさんが何なんで人ひとに金かねを貸かすものか、それに僕ぼくだけが多少たせう同情どうじやうしてるんだから、感謝かんしやすべき筈はずだ」
「君きみの顏かほが老爺ぢいさんの息子むすこにでも似にてるんぢやないか」
「なあに彼奴あいつの子こは身體からだが痩やせてゝ、親爺おやぢのやうな恐こわい目めをしてるそうだ」
「兎とに角かく君きみも酷ひどい奴やつに見込みこまれたものだね」
「氣味きみの惡わるい老耄おいぼれだよ」
香川かゞははその夜よから目めが醒さめると、暗中あんちゆうにかの凄すごい目めを見みて震ふるえることがある。で、二三日にちすると遂つひに堪たへかねて、詮方せんかたなく外ほかへ轉居てんきよした。
暫しばらく老人らうじんの事ことを忘わすれて、金かねの苦面くめんに惱なやんでゐたが、或ある日ひ不圖ふと社しやの前まへで彼かれに出會であつた。病氣びやうきは治なほつたのか治なほらぬのか、尋たづねても、齒はの拔ぬけた口くちをもぐ〳〵させた許ばかりで分わからなかつたが、風呂敷ふろしき包づゝみを脊負せおうて、フラつく足あしで出でて行いつた。
香川かゞはは眉まゆを顰ひそめて顏かほを脊そむけた。