村塾
Reading edition
寄宿舎きしゆくしやのはづれ、松まつの樹きに蔽おほはれた櫓風やぐらふうの高たかい古堂ふるだうから、ドン〳〵と太鼓たいこが鳴なつて、擂鉢すりばちの底そこのやうな平地へいちを越こして、向むかうの山やまへ響ひゞき渡わたる。その最後さいごの音おとの消きえぬ間まに、袴はかまを着つけた二十歲はたち前まへの少年せうねんが、正門せいもんや通用門つうようもんから打うちつゞいて、幾人いくにんとなく現あらはれて來くる。校舎かうしやの石壁いしべいを背せにして丁字てうじ形がたの細ほそい道路だうろに溢あふれて、麥むぎの中なか、菜種なたねの中なかにも散ちらばつた。
今澤いまざわ定吉ていきちもその一人にんだ。文章ぶんしやう軌範きはんと靖獻せいけん遺言ゐげんとを、布呂敷ふろしきにも包つゝまず左ひだりの脇わきに抱かゝへ、右みぎの手ては木綿もめんの兵子帶へこおびに挿はさみ、同おなじ年頃としごろの通學生つうがくせいA君くんと無邪氣むぢやきな話はなしをしながら、草履ざうり穿ばきで畦道あぜみちを傳つたつた。この學生がくせいとは四五日前にちぜんに、東京とうきやうの雜誌ざつしの交換かうくわんを約やくしてから、急きふに懇意こんいになつたので、每晚まいばん往來わうらいして、文章ぶんしやうの議論ぎろんなどをして居る。
「君きみは何故なぜ寄宿舎きしゆくしやに入はいらんのだ」
「僕ぼくあ入はいりたいんだけれど、親爺おやぢが寄宿舎きしゆくしやを嫌きらつてるから」
「そうかい、昨夕ゆふべは谷村たにむらが蒲團蒸ふとんむしにされたさうだな、寄宿舎きしゆくしやの奴やつは亂暴らんぼうだ」
「何なんだか賄まかなひ征伐せいばつをやると力りきんでる奴やつがある、喜公きいこうも生意氣なまいきだから擲なぐると云いつてるよ」
「寄宿舎きしゆくしやの者ものあ、碌ろくに勉强べんきやうもせんで、そんなことばかり考かんがへとる、僕ぼく等らは矢張やはり通學つうがくして、餘暇よかには文章ぶんしやうでも書かいた方はうがいゝねえ、君きみ」と、A君くんはさも深ふかく感かんじたように云いふ。
やがてA君くんは支道えだみちへ分わかれた。
「ぢや失敬しつけい」
「今夜こんやは僕ぼくの家うちへ來給きたまへ、紅葉亭こうえふていの方はうへ散步さんぽしよう」
今澤いまざわは「あの男をとこも面白おもしろいいゝ人間にんげんだ」と思おもつた。此頃このごろは凡すべての人ひとが懷なつかしい。新あたらしい知合しりあひになつた村むらの人ひとも學友がくいうも、凡すべて懷なつかしい。
二三步ぽすると、麥むぎと麥むぎとの間あひだに女をんなの背せなが見みえる。よく見みると宿やどの娘むすめだ。十七だと云いふが、色いろが白しろく靨えくぼがあつて可愛かあいらしく、そして親切しんせつだ。これも懷なつかしい一人にん。
娘むすめは藁畚ふごから腐くさつた木この葉はを攫つかみ出だして、畆はたけの中なかへ散ちらしてゐたが、彼かれが近ちかづくと莞爾につこりとして、汚よごれた手てで頭あたまの手拭てぬぐひを取とり、恭うや〳〵しく挨拶あいさつして、
「もうお歸かへんなさるかな」
「いゝや、今日けふは午後ひるからお休やすみだから、少ちつとの間ま、何處どこかで遊あそんで歸かへります、晝ひるの御飯ごはんもゆつくり﹅﹅﹅﹅でよろしい」
「左樣さうかな、最少もすこしすると、向むかひの叔父おぢさんも魚市いちから戾もどつて來きませうから、何なにかお魚さかなを持もつて來きて吳くれませう」
「ぢや、それ迄まで僕ぼくは腹はらを減へらして來くる。」
今澤いまざわは肥料こやしの香にほひが、畝はたけの中なかから湧わき上あがるのに眉まゆを顰ひそめ、急いそいで通とほり拔ぬけた。小溝こみぞの丸木橋まるきばしを渡わたり、道側みちばたから馬うまの背せほど高たかくなつてる空地あきちへ匍はひ上あがつた。柔やはらかい草くさが一面めんに生はへてゐて、寢ねころぶと肱ひじや首筋くびすじにひやり﹅﹅﹅と觸ふれる。それが何なんとなくいゝ氣持きもちだ。雌摑めくぬぎの歪ゆがんだ葉はが疎まだらに空そらを遮さへぎつて、眞晝まひるの光ひかりも眩まぶしくはない。雲雀ひばりの聲こゑが獨ひとり忙せはしく、近ちかく遠とほく聞きこえる。
彼かれは今年ことしの三月ぐわつ――明治めいぢ二十五年ねん――初はじめて兩親りやうしんの膝下しつかを離はなれ、この山間さんかんの百姓家しやうやに、自分じぶんで寢床ねどこをのべ、獨ひとり淋さびしく眠ねるやうになつてから、天氣てんきさへよければ、殆ほとんど每日まいにちこの空地あきちへ來くる。時ときには國民こくみん新聞しんぶんや少年園せうねんゑんを漢書かんしよの間あひだに挾はさみ、放課はうくわ時間じかんに讀よみに來くることがある。或ある大家たいかの「熱海あたみだより」に「上かみに幽禽ゆうきんの囀さへずるを聞きき、下しもに淸瀨せいらいの咽むせぶを聞きき、ヲルヅヲルスの詩しを誦じゆし候さふらふ」とあるを讀よんで、小ちいさい胸むねを轟とゞろかせ、自分じぶんもその境涯けうがいに身みを置おいて、ヲルヅヲルスの代かはりに、靖獻せいけん遺言ゐげんの屈原傳くつげんでんを朗讀らうどくしたこともあつた。時ときには母はゝの手紙てがみを持もつて來きて、繰返くりかへし〳〵暗記あんきする程ほど讀よんで、逸はるかに故鄕こきやうの春はるを思おもつたこともある。或あるひは袂たもとに駄菓子だぐわしの袋ふくろを入いれて、この木蔭こかげで腹はら一杯ぱいに貪むさぼつては、喉のどが乾かはくと、篠笹しのざゝに縋すがつて後うしろの渓流けいりうへ下くだり、淸水しみづに口くちを浸ひたすこともある。
しかし今日けふは讀よむべき雜誌ざつしも新聞しんぶんも持もつてゐない。食くふべき菓子くわしも持もつてゐない。只たゞ寢ねころんで春はるの空氣くうきに浴よくしてゐるばかり。やがて兩手りやうてで頰杖ほゝづゑついて、目前めさきにちらちらする糸遊いとゆうを眺ながめ、ピイツク〳〵と雲雀ひばりの口くち眞似まねをした。それも厭あくと、何なんだか眠ねむくなつて、暫しばらくウト〳〵してゐた。
車力しやりきの音おとに夢ゆめが融とけて、寢ねたなり目めを開ひらくと、數町すうちやう先さきの彼かれの宿やどのあたり﹅﹅﹅から、淡あはい煙けぶりが舞まい上あがつてゐる。
悠長いうちやうな鼻はな唄うたと共ともに、道みちの曲角まがりかどから竹籠ざるを擔かついだ逹公たつこう――宿やどの娘むすめの所謂いはゆる叔父をぢさん――が現あらはれた。
「貴下あなたは何なにをしてゐなさる」
「何なんでもない、お前まへの歸かへるのを待まつとるんだ。甘おいしい魚さかながあるかな」
「あるとも、まあ下おりて見みなされ」と、竹籠ざるを下したへ置おいて、鉢卷はちまきを取とつて、それを廻まわして風かぜを呼よぶ。
今澤いまざわは投なげ出だされてる書物しよもつを拾ひろつて、懷中ふところにねぢ込こんで驅かけ下おりた。逹公たつこうは竹籠ざるの柴しばを搔かき分わけて、
「そうれ、黑鯛ちぬもあらあ、針魚さよりもあらあ」と指示さしゝめした。
「甘うまさうだな」と、今澤いまざわはさも欲ほしさうに云いつて、針魚さよりの長ながい嘴くちばしを抓つまんで見みる。靑あをい縞しまが日ひを受うけて燦かゞやく。逹公たつこうは自分じぶんの子供こどもでも綾あやすやうに、
「さあ一緖しよに歸かへりませう、歸かへつて料理れうりして上あげます」と、竹籠ざるに葢ふたをして擔になつた。
野道のみちには通學生つうがくせいは消きえて、寄宿生きしゆくせいはまだ散步さんぽに出でて來こない。逹公たつこうは黑くろい脚あしに太ふとい筋すぢを浮うかせて、先さきに立たつて行ゆく。今澤いまざわは肩上かたあげのある粗あらい絣かすりの袷あはせを着きて、減すき腹ばらに强つよい食慾しよくよくを感かんじて、後あとからついて行ゆく。
逹公たつこうは本職ほんしよくの畠はたけ仕事しごとの傍かたはら、魚賣さかなうりをして、三日みつかに一度ど位ぐらゐは三里りあまりもある海邊うみべへ出掛でかける。總領そうりやうの喜助きすけは寄宿舎きしゆくしやの賄方まかなひかたに入はいつてゐる。そして今澤いまざわは宿やどが逹公たつこうの家いへと向むかかひ合あつてゐるので、風呂ふろにも入はいりに行ゆく。怠屈たいくつな時ときは話はなしをしに行ゆく。初はじめは逹公たつこうの顏かほが恐こわかつたが、腹はらの中なかは柔やさしい親切しんせつな人ひとらしく、二三度ど會あうとこれも懷なつかしい一人にんとなつた。家族かぞくの者ものが皆みんなして可愛かあいがつて吳くれる。入學にふがく當時たうじ旅窓りよそうの淋さびしさ怠屈たいくつさをこの家族かぞくによつてどれ程ほど慰なぐさめられたであらう。「貴下あんたはこんな山やまの中なかへ來きて、お甘いしい者ものが食たべられんからお困こまりぢやらう、不味まづい者もの食たべて瘠やせちや、國くにのお母かあさんが泣なきなさる。」とは、逹公たつこうの女房かみさんの口癖くちぐせで、團子だんごやお萩はぎが出來できると必かならず持もつて來きて吳くれる。魚市いちへ行ゆくと屹度きつと魚さかなを屆とゞけて吳くれる。そして今澤いまざわは母はゝから送おくつて來くる小使錢こづかひぜにの半なかばは、この魚代さかなだいに拂はらつてしまう。
彼かれの宿やどの前まへは欝蒼うつさうたる山やま、木樵きこりの斧おのの音おとも手てに取とるやうに聞きこえる。彼かれは開あけ放はなした部屋へやで飯めしを食くひ、母はゝへの手紙てがみを認したゝめてゐると、「御勉强ごべんきやうですか」と、靑脹あをぶくれの背せの高たかい男をとこが日ひを遮さへぎつて前まへに立たつた。壯太さうたと云いつて、喜助きすけと同おなじく、寄宿舎きしゆくしやの賄方まかなひかただが、中々なか〳〵大志たいしを抱いだいてゐて、暇ひまがあれば學課がくゝわを傍聽ばうちやうしてゐる。前まへからこの家うちへは遊あそびに來きてゐたが、今澤いまざわとは同國どうこくだといふので、遂つひに懇意こんゐになり、古雜誌ふるざつしなどを借かりて行ゆく。
「君きみは今日けふ講義こうぎを聽ききに出でましたか」と、今澤いまざわは手紙てがみを卷まいて仰向あふむいた。
「いや行ゆきません、今日けふはごた〳〵してゐましたから」
「君きみ、今日けふの靖獻せいけん遺言ゐげんは大層たいそう面白おもしろかつた、中野なかの先生せんせいは甘うまいなあ」といつたが、壯太さうたは何時いつものやうに乗出のりだして來こない。
「さうですか、僕ぼくはもう暇ひまを貰もらつて國くにへ歸かへらうかと思おもひます」と、何なんとなく萎しほれた色いろが見みえる。
「何故なぜ歸かへるんです、え、君きみ」と、今澤いまざわは少すこし驚おどろいて問とひ詰つめた。
「何なんでもありません、只たゞ國くにが戀こひしくなりましたから」
「だつて、君きみは此校こゝでうん﹅﹅と勉强べんきやうするつもりで來きたんでせう」
「しかしもう﹅﹅厭いやになりました、學問がくもんも厭いやだし、この村むらの者ものも厭いやだし」
今澤いまざわは腹はらの中なかで「變へんだな」と思おもひ、相手あひての顏かほをジロ〴〵見みて、「君きみ、寄宿舎きしゆくしやの者ものあ、賄まかなひに不平ふへいを云いつてるさうだな、何なにかあるんですか」
「さあ、何なんだか知しらんが、今いまに騷動さうどうがあるでせう」
「賄まかなひの中うちでは喜公きいこうが惡にくまれとるさうだが、どうしたんでせう、あれもいゝ人ひとだがなあ………昨夕ゆふべも遲おそくこの家うちへ來きてゐた」
「さうですか、どんな話はなしをしてゐました」と、壯太さうたは厭いやに聲こゑを低ひくくして、目めを据すゑた。
「どんな話はなしだか僕ぼくあ寢ねつちまつたから知しりません」
「ふゝん」と云いつて、壯太さうたは考かんがへてゐたが、暫しばらくして「ぢや貴下あなたはよく勉强べんきやうなさい、當分たうぶんお目めに掛かゝれんかも知しれません」と云いつて、お辭義じぎをして机つくゑの前まへを離はなれた。
娘むすめは門かどで鎌かまを磨といでゐる。壯太さうたは屈かゞんで娘むすめと何なにか話はなしをしてゐたが、やがて娘むすめを小突こづいて、怒おこつた顏かほをしてスタ〳〵と行いつてしまつた。今澤いまざわは驚おどろき呆あきれた。そして書かきさしの手紙てがみに向むかひ、村むらの靜しづかで景色けいしよくも佳よいこと、住民じうみんの善良ぜんりやうなること、學課がくゝわの面白おもしろいことなどを美文調びぶんてうで書かいて、それを封ふうじながら、壯太さうたの事ことを考かんがへた。
この家うちには夜よるになつて、よく村むらの百姓しやうや寄宿舎きしゆくしやの賄方まかなひかたの連中れんぢうが遊あそびに來くる。しかし世間せけん話ばなしばかりで、別べつに變かはつたこともない。壯太さうたも宿やどの老爺ぢいさんの好すきな狐鮨きつねずしを買かつて來きて、父娘おやこ二人ふたりに自分じぶんの行末ゆくすゑの大望たいまうを話はなしなどして歸かへるばかりだ。壯太さうたはよく「私わたしだけは他國よその者ものだから、どうも仲間なかまと折合をりあひが惡わるい」と零こぼしてゐたが、逹公たつこうは度々たび〴〵宿やどの娘むすめに向むかつて、「今澤いまざわさんなんか、遠方ゑんぱうから來きてゐなさるんだから、不自由ふじいうなことが多おほからう、氣きをつけてお上あげよ、他國よその人ひとは大事だいじにせねばならん」と注意ちういする程ほどだから、他鄉よその者ものを虐待ぎやくたいする譯わけはない。
で、彼かれは暫しばらく疑うたがつて見みたが、別べつに壯太さうたと深ふかい關係かんけいがあるのでもないから、間まもなく忘わすれてしまひ、聲こゑを出だして靖獻せいけん遺言ゐげんの復習ふくしふをした。折々おり〳〵木きの倒たふれる音おと、木樵きこりの唄うたが聞きこえる。復習ふくしふが終をはつた頃ころ、その唄うたも止やみ山やまは靜しづかになり、春はるの日ひも山やまへ入はいつた。狹せまい谷間たにまだから、日ひの隱かくれるのが早はやいが、容易よういに暗くらくはならぬ。淡あはい長閑のどかな夕暮ゆふぐれが長ながく續つゞく。今澤いまざわは閾しきゐに腰掛こしかけて、朧おぼろに霞かすんだ逹公たつこうの藁屋わらやを眺ながめてゐると、宿やどの娘むすめが
「向むかひに風呂ふろが湧わいたからお入はいりなさい」と知しらせて來きたので、何氣なにげなく、
「壯太さうたさんは播州ばんしうへ歸かへるさうですね、どうしたのか知しらん」
と聞きくと、「私わたし、存ぞんじません」と、卒氣そつけない返事へんじをして、何時いつもの愛嬌あいけうを見みせて吳くれなかつた。しかし今澤いまざわは不思議ふしぎにも感かんじない。そして丸裸まるはだかになつて、小ちいさい野菜やさい畝ばたを橫切よこぎり、野天のてんの据風呂すゑふろへ飛込とびこんだ。半月はんげつが次第しだいに明あかるくなるのを眺ながめて、柔やはらかい湯ゆに漬つかつてゐると、裏口うらぐちから逹公たつこうが來きて太ふとい柴しばを無雜作むざうさにへし折をつては燒くべる。
「よく湧わいてるから、もうよろしい」と云いつても、
「大事だいじな子こに風かぜでも引ひかせちやならん」と承知しやうちしない。今澤いまざわは燃もえ上あがる火ひの、逹公たつこうの頑丈がんじやうな赤あかい顏かほを照てらすのを見みてゐたが、
「叔父をぢさんは力ちからが强つよいだらうな」
「强つよいとも、十人力にんりきだ、貴下あんた位ぐらゐは手ての表ひらでさし上あげらあ、村むらの若わかい者ものでも私わしにや降參こうさんするからな」と大おほきな聲こゑで云いつて、ハツ〳〵と笑わらひ、「學問がくもんする人ひとは、何なんで皆みな弱よわいんだらう」
「そりや色いろんなことを考かんがへるから、百姓しやうしてるやうにボンヤリしちや居をれんもの」
と、今澤いまざわがマセた口くちを利きくと、逹公たつこうはへゝんと嘲笑あざわらつて、
「百姓しやうでもボンヤリしちや居をりませんぜ、貴下あんたなんかこそ今いまの間うちは本ほんを讀よんで逹たつの魚さかなでも食たべとりや、外ほかに云分いひぶんはないんだから結構けつこうだ、しかし貴下あんただつて今いまに心配事しんぱいごとが出來できて來くる、屹度きつと出來できる、今歲ことし十四におなりなさるんだから、卒業そつげふ迄までまだ後あと四年ねんだ、この村むらにゐる間うちに、もうそろ〳〵﹅﹅﹅﹅慮見方れうけんかたが違ちがつて來きまさあ」
「そんな事ことあ本ほんを讀よんで知しつてらあ」
「さうでないて、壯太さうたなんかゞな、エラさうな口くちを利きくと、私わしが云いつて聞きかせます。私わしの目めにやお前まへ逹たちの腹はらは見みえ透すいてるつてね、逹公たつこうは明盲あきめくらでも頭あたまにちやん﹅﹅﹅と四書しよ五經きやうが備そなはつとるんですぜ、だから忰せがれにもちつとばかりの學問がくもんをせんでも、親爺おやぢの敎をしへをよく聞きけ、それで澤山たくさんだと云いふんです、忰せがれもあれで親爺おやぢの子こだ、ヘマな眞似まねをして耻はぢを搔かくやうなことはしません」と、息子むすこの自慢じまんをして、獨ひとりで笑わらつた。今澤いまざわはゆで﹅﹅鮹だこのやうになつて聞きいてゐた。
その夜よ今澤いまざわが散步さんぽから歸かへると、直すぐ寢床ねどこへ入はいり、朝あさまで夢ゆめ一ひとつ見みずに熟睡じゆくすゐした。起おきると例れいの如ごとく畦あぜ傳づたひに學校がくかうへ向むかつた。通學生つうがくせいの溜たまりへ入はいると、既すでに四五人にん集あつまつて賑にぎやかに喋しやべつてゐたが、その一人にんが今澤いまざわを見みると、
「ぢや今澤君いまざわくんに聞きいて見み玉たまへ」といふ。
「何なんだい」と、今澤いまざわは駈かけてその群むれへ入はいつて目めをきよろ〳〵させた。
「君きみはまだ知しらんのか、昨夕ゆふべの賄方まかなひかたの喧嘩けんくわを、喜公きいこうが打ぶたれたさうだぜ」
「え、喜公きいこうが誰だれに」
「壯太さうたといふ奴やつに」
「本當ほんたうか、何故なぜだらう」
「だから君きみに聞きくんさ、君きみは二人ふたりともよく知しつてるから」
今澤いまざわは驚おどろいてよく聞きくと、壯太さうたは刃物はものを持もつてゐたので、他ほかの者ものは恐おそれて近ちかづかず、喜公きいこうは思おもふさま打ぶたれた。そして壯太さうたは昨夕ゆふべから寄宿舎きしゆくしやにゐないさうだ。
この噂うはさは放課はうくわ時間じかん每ごとに話題わだいに上のぼり、逹公たつこうが賄まかなひ部屋べやで怒鳴どなつてる樣さまを報吿ほうこくする者ものもあれば、その原因げんいんを硏究けんきうする者ものもある。學校がくかうは一日にちこれで賑にぎはつた。
學課がくゝわが終をはると、今澤いまざわは例れいの木蔭こかげで休やすんで、書物しよもつを讀よみ草くさの香にほひに浸したつて、最早もはや喧嘩けんくわの原因げんいんなどを念頭ねんとうに置おかなかつた。
その晚ばん、彼かれは近頃ちかごろ覺おぼえた詩吟しぎんをしながら、谷川たにがはに沿そうて散步さんぽした。宿やどの娘むすめは鍬くわを洗あらつてゐる。側そばには二三の百姓しやうが脚胖きやはんと草鞋わらじを投なげ出だして足あしを洗あらつてゐる。茲こゝでも高たかい聲こゑで喧嘩けんくわの噂うはさだ。
「喜公きいこうも意氣地いくぢのない奴やつだのう」「播州者ばんしうものなんかに毆なぐられるなんて村むらの名折なをれだ」「彼奴あいつがまだ村むらにゐようなら袋叩ふくろたゝきにしてやるになあ」と、口々くち〴〵に憤慨ふんがいしてゐる。
「何なんでも壯太さうたの野郞やらうが惡わるいに違ちがいない、ちつとばかりの學問がくもんを鼻はなにかけて、漢語かんごなんか使つかやがつて、平生ふだんから小憎こにくらしい奴やつだつた」
「全體ぜんたい彼奴あいつ生意氣なまいきだ、新田しんでんの辰たつの娘むすめに艶書ふみをつけたといふぜ、女をんなを口說くどくに小六こむつケ敷しい艶書ふみにも及およぶまい」
「他國たこくの奴やつに女をんなを荒あらされて溜たまるもんか」と皆みんなで笑わらつた。宿やどの娘むすめは鍬くわを擔かついで急いそいで歸かへつた。入違いりちがつて逹公たつこうが佛頂面ぶつてうづらをして來きたが、今澤いまざわが蹲しやがんで道みちを防ふさいでるので、
「そうら、退どいた〳〵」と邪慳ぢやけんに云いつて、彼かれを突飛つきとばすやうにして、馬うまをザブリと水みづへ入いれた。水みづは四邊あたりに飛とびかゝる。
「逹たつさん、壯太さうたは行方知ゆくへしれずか」
「何なんであんな無茶むちやな事ことをしたんだらう」と、左右さいうより問とひかけた。
「播州ばんしうの奴やつあ畜生ちくしやうだ、穩順おとなしさうな面つらしてやがつて」と、逹公たつこうは凄すごい顏かほをして、手綱たづなで馬うまを打うつた。
今澤いまざわは目めを丸まるくして恐々こは〴〵見みてゐたが、やがて逃にげるやうに川下かはしもへ下くだつた。水みづは月光げつくわうを乗のせて耳語さゝやくやうに足下あしもとを流ながれてゐる。彼かれは生うまれて初はじめて他鄉たきやう孤獨こどくの感かんを覺おぼえた。