彼れの一日
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彼かれ――黑塚くろづか白雨はくう――は九時じに目めを醒さました。下女げぢよの紙箒はたきの音おとが部屋へやの兩隣りやうどなりで騷々さう〴〵しく聞きこえる。電車でんしやの音おとがギイ〳〵耳みゝに響ひゞく。彼かれは今いままでうつら〳〵﹅﹅﹅﹅﹅﹅淺あさい夢ゆめを見みてゐたのだ――草山くさやまが赤あかい鉢卷はちまきして逆立さかだちして踊をどつてる。喇叭ラツパや太皷たいこで囃はやし立たてる。自分じぶんも手拭てぬぐひを頭あたまに載のせ褄つまを取とつて踊をどらうとする。場所ばしよは何なんでも七八年前ねんまへに住すんでた西方寺さいはうじの一室しつらしい――彼かれはその夢ゆめを考かんがへて厭いやな氣きがした。社しやには素面すめんでカツポレを踊をどる人ひとがあるが、自分じぶんは何なにかの拍子ひやうしで、一度いちど琉球節りうきうぶしを唄うたつたため、今いま思おもひ出だしても冷汗ひやあせが出でる。何なんだつてあんな夢ゆめを見みたことか……
彼かれは身體からだを伸のばして新聞しんぶんを取とり、又また寢床ねどこへずり込こんで、それを開ひらいた。朝日あさひが障子しやうじの破目やれめを通とほつて、新聞しんぶんに圓まるく映うつり、鮮あざやかに光ひかつた。彼かれは一通とほり讀よんで了しまうと、むく〳〵と起おき、小走こばしりで洗面場せんめんばへ行いつた。五分間ふんかん計ばかり冷水れいすゐ摩擦まさつに餘念よねんがない。これは十年ねんも前まへに身心しん〳〵鍛鍊たんれんのために初はじめたので、今いまはその必要ひつえうを感かんじてるのではないが、只たゞ習慣しふくわんで止やめられぬのだ。この寒さむいのに醉興すゐきようなと、人ひとも云いへば自分じぶんにも思おもふ。しかし苦學くがく時代じだいの名殘なごりがまだ消きゑてしまはぬ。
彼かれは朝食あさめしを濟すますと、元町もとまちの停留場ていりうばから電車でんしやに乗つた。
車掌しやしやうが回數券くわいすうけんに鋏はさみを入いれるまでは氣きが落付おちつかなんだが、お茶ちやの水みづを渡わたる時とき、その車中しやちうの役目やくめが濟すみ一安心ひとあんしんした。そして目めを閉とじ手てを拱こまねいた。彼かれはかねて往復わうふくの乗車じやうしや時間じかんを利用りようして獨逸語どいつごを硏究けんきうするつもりで、今日けふは懷中くわいちうにヂヤーマンコースを潜ひそませてゐるが、容易ようゐに取出とりださうともしない。數寄屋橋すきやばしまで二十分間ぷんかん、此頃このごろの例れいにより取留とりとめもない空想くうさうに耽ふけつた。空想くうさうと云いつても翠帳すゐちやう紅閨こうけいが浮うかんで來くるのでもなく、天外てんぐわい無窮むきうの境きやうに思おもひ及およぶのでもなく、彼かれの顏かほの乾涸ひからびてゐる如ごとく、その空想くうさうも乾涸ひからびてゐる。
朝あさ讀よんだ社しやの新聞しんぶんの記事きじが斷片的きれ〴〵に頭あたまに浮うかび、空想くうさうがそれに附随ふずゐして飛とび廻まはる――。自分じぶんが力ちからを籠こめて書かいた或派あるはの議員ぎゐん買收ばいしうの記事きじが悉こと〴〵く抹殺まつさつされ、今朝けさの新聞しんぶんには一行ぎやうも出でてゐない。そして下くだらない記事きじはどつさり﹅﹅﹅﹅出でてゐる。電車でんしや會社ぐわいしやの重役ぢうやくの手前てまへ勝手かつての意見いけんが、さも尤もつともらしく長々なが〳〵と出でてゐる。あれを書かいたのは佐々良さゝらに違ちがひない。彼奴きやつ何なにか魂膽こんたんがあつて書かいたのだらう。怪けしからん奴やつだ。常つねに新聞しんぶんを自分じぶんの利益機關りえきゝくわんのやうに用もちひる。どう思おもつても怪けしからん。それで洒蛙々々しやあ〳〵として更さらに心こゝろにも顏かほにも疚やましい風ふうはない。……紙面しめんの賑にぎはひと云いふ大憲法だいけんぱふの下もとには、針はり程ほどのことも仰山ぎやうさんに吹聽ふゐちやうして、人ひとに迷惑めいわくを掛かけ、讀者どくしやに虛僞きよぎを傳つたへ、やうやく下宿げしゆく料れうに足たるか足たらぬの報酬はうしうを貰もらふ。情なさけない商賣しやうばい、怪けしからん職業しよくげふだ。たま〳〵正義せいぎと思おもつて破邪はじやの筆ふでを揮ふるふと抹殺まつさつされる――
彼かれの空想くうさうは一轉てんして今日けふの晝飯ひるめしを考かんがへた。蕎麥そば、五目鮨ごもくずし、餡あんパンが早速さつそく頭あたまに浮うかぶ。どれもどれも度々たび〳〵の事ことで鼻はなについてる。偶たまにや變かはつた者ものが慾ほしい。――遂つひに「大新たいしんの天麩羅てんぷら」と腹はらの蟲むしが叫さけんで、彼かれは我われ知しらず袂たもとから蟇口がまぐちを出だして見みた。銀貨ぎんくわが六十錢せんばかりある。入社にふしや以來いらい三年ねん月給げつきうは居据ゐすわりで、天てんドンは十三錢せんから十八錢せんになつた。どうかしなくちやならん正義せいぎ呼よばはりもないもんだ。
「曲まがりますから御注意ごちういを」と、車掌しやしやうが大聲おほごゑで機械的きかいてきに云いつた。電車でんしやが激はげしく動搖どうえうする。立たつてる乗客じやうかくが靴くつの踵かゝとで彼かれの爪先つまさきを踏ふんだ。彼かれは角かど立たつた目めで恨うらめしさうに相手あひての後姿うしろすがたを見上みあげた。電車でんしやが落付おちつくと、彼かれは又また目めを閉とぢる。
夢ゆめに踊をどつてた草山くさやまの現實げんじつの顏かほが憎々にく〳〵しく浮上うきあがつて來くる。――あの野郞やらう、社長しやちやうにお謟べつかつて、狡づるいことをしてやがる。俳優やくしやの投票とうひやう、小說せうせつの懸賞けんしやう募集ぼしふ、皆みな彼奴あいつの差金さしがねだ。體ていよく社長しやちやうを說といて、社しやの發展はつてんの爲ためだと、お爲ためごかしに自身じしんの勢力せいりやく擴張ゝわくちやうをやつてる。出勤しゆつきん時間じかんだつて少ちつとも守まもつてゐない。朝あさは遲おそく出でて晚ばんは早はやく歸かへる。よく注意ちういして見みてるに、おれの三分ぶんの一の仕事しごとさへして居をらん。それに世間せけんからは、やれ何なに新聞しんぶんの敏腕家びんわんかだの、新進しん〳〵小說家せうせつかで御座ござるの、劇通げきつうで候さふらふのと、出放題ではうだいな稱賛しやうさんをしてゐる。何なんだい彼あれが、碌ろくそつぽに語學ごがくも出來できねば、文章ぶんしやうだつておれの目めから見みると些ちつとも甘うまくはない。腕前うでまへと云いへば新聞しんぶんを甘うまく利用りようしては本屋ほんやの提灯ちやうちん持もちをして、そのお禮れいに拙まづい小說せうせつを賣込うりこむ位くらゐだ。何なんでも役者やくしやからの付屆つけとゞけもありや、御馳走ごちさうにもなつてるらしい。昨夜ゆふべだつて大坂おほさか役者やくしやに百尺ひゃくせきへ招待せうだいされたさうだ………おれは新聞しんぶんへ入はいつてから、役德やくとくと云いやあ、あれと此これと、招待せうだいも三度どしきや受うけてやしない――
空想くうさうはふら〳〵と一轉てんする。「今日けふは何なにを書かかう」、輪轉機りんてんきすら一臺だいもない小新聞せうしんぶんだから、彼かれの如ごとき政治せいぢ智識ちしきの乏とぼしい者ものも、一週しうに一度どは論說ろんせつを割付わりつけられてあるので、今日けふがその當番たうばんだ。彼かれはその問題もんだいを捜さがして、增稅案ざうぜいあん、移民ゐみん會社くわいしや取締とりしまり、對たい朝鮮てうせん政策せいさく、どれも六ケ敷しい。國民こくみんの驕奢きやうしやを攻擊こうげきするか、それとも惡小說あくせうせつの流行りうかうを罵倒ばたふするか、どちらが手易たやすいだらうか、小說論せうせつろんにしても、どう論ろんじたら早はやく書かけ手數てすうが掛かゝらないだらう………と考かんがへたが、別べつに妙案めうあんの纏まとまりもせず、又また强しいて纏まとめやうともせぬ間うち、
「數寄屋橋すきやばし」
彼かれは詮方せんかたなく空想くうさうを拂はらつて電車でんしやを下おりた。ノソ〳〵と二三町ちやう步あるいて社しやへ行ゆくと、下駄箱げたばこの側そばで草山くさやまに出でつくはした。
「やあ、今日けふは馬鹿ばかに早はやいぢやないか」と、草山くさやまの方はうから聲こゑを掛かける。黑塚くろづかは「それや此方こちつの言分いひぶんだ」と、忌々いま〳〵しく思おもつたが、、口くちでは尋常じんじやうに、
「君きみこそ早はやいぢやないか、僕ぼくは何時いつも今いま時分じぶんに來くる」
「さうか、女房にようぼのない者ものあ異ちがつたものだね」と、草山くさやまは晴々はれ〴〵した聲こゑで云いつて二階かいへ上あがつた。黑塚くろづかは後あとから付ついて行ゆく。
草山くさやまは黑塚くろづかよりも三つ歲上としうへだが、學校がくかうも同おなじくクラスも同おなじく、共ともに苦學生くがくせいで、半年はんとしばかりは一緖しよに本鄉ほんがうのお寺てらで自炊じすゐしたこともある。黑塚くろづかの入社にふしやも草山くさやまの周旋しうせんによるのだ。しかし今いまは二人ふたりの生活くらしはその着物きものの結城紬ゆうきつむぎと瓦斯織がすおりと異ちがつてる位くらゐ異ちがつてゐる。一人ひとりは既すでに一家かを構かまへ女房にようぼもあり子この二人ふたりもあり、多少たせうの借金しやくきんもある。一人ひとりは自炊じすゐから下宿屋げしゆくやに移うつつた位くらゐで、さしたる變化へんくわもない。入社にふしやと同時どうじに今いまの下宿屋げしゆくやに轉てんじたので、もう彼此かれこれ四年ねん同おなじ部屋へやに居ゐる。せめて宿やどでも變かはつたらばと思おもつてゐるが、思おもうばかりで斷行だんかうはしない。
そして草山くさやまは屡々しば〳〵、
「君きみ、何なにか書かかんか、僕ぼくが周旋しうせんしよう、君きみは原書げんしよが讀よめるんだから、その中なかに面白おもしろい話はなしが見みつかるだらう、何なんなら、僕ぼくに話はなして吳くれんか、翻案ほんあんの材料ざいれうに」
と云いつて、多少たせう生活くらしの補助ほじよを計はかつてやるが、黑塚くろづかは何時いつも淋さびしく笑わらつて、首くびと手てとを橫よこに振ふる。
「僕ぼくはとても書かけりやしない。それにどうも忙いそがしくつて、何なにをする暇ひまもない」と云いつて最後さいごは「君きみは餘暇よかがあるから結構けつこうだ」と、褒ほめるのか羨うらやましいのか冷ひやかすのか、この男をとこ獨得どく〳〵の調子てうしで云いふ。これが彼かれのお定きまりの返事へんじだ。そして腹はらの中うちでは「何なに彼等あれらに利用りようされて溜たまるもんか」と、竊ひそかに反抗はんかうしてゐる。
彼かれは編輯室へんしうしつに入はいると、ストーブの側そばで煙草たばこを一本ぽん吸すふ。「給使きうじ、お茶ちやと原稿紙げんかうし」と呼よぶ。その聲こゑは高たかく力ちからがある。軍曹ぐんさうが新兵しんぺいにでも命令めいれいする口調くてうだ。草山くさやまは椅子いすに反身そりみになり諸新聞しよしんぶんの綴込とぢこみを見みてゐたが、
「開ひらけない奴等やつらだ。何なんだつてこんな眞似まねをするんだらう」と、鼻はなで笑わらつて、新聞しんぶんを下したに置おき、「君きみ讀よんだかい、綾瀨あやせと櫻井さくらゐの喧噪けんくわを」と黑塚くろづかの顏かほを見みた。
「ふん、大變たいへん面白おもしろい、綾瀨あやせに同情どうじやうする、眞劍しんけんだから活氣くわつきがある」
「兩方りやうはうとも眞劍しんけんさ、だから可笑おかしい、あの連中れんぢうは朝あさから拔身ぬきみで構かまへてるんだね」と、草山くさやまは無斷むだんで黑塚くろづかの煙草たばこを一本ぽん奪とつて火ひを借かり、「綾瀨あやせも西方寺さいはうじ時代じだいにはよく來きたものだが、この頃ごろはちつとも姿すがたを見みせん、君きみは遇あうかい。」
「いや滅多めつたに會あはん、眞面目まじめに勉强べんきやうしてるやうだよ、あの男をとこは狡づるい所ところがないからいい」と、黑塚くろづかは心こゝろの中なかでは、多少たせう草山くさやまに當あてこすつたつもりであつたが、草山くさやまは氣きつかぬ風ふうで、
「馬鹿ばか正直しやうぢきで損そんばかりしてると、人樣ひとさまに同情どうじやうして貰もらへるんだが」と笑わらひ〳〵云いつた。黑塚くろづかは不快ふくわいな顏かほをして席せきについた。彼かれの机つくゑは窓際まどぎはに沿そうて孤立こりつしてゐる。硯すゞりの塵ちりを吹ふき墨すみを磨すり、凡およそ二十分ぷんも、考かんがへてゐると編輯長へんしうちやが來きたので、
「問題もんだいはありませんか、緊要きんえうな問題もんだいがなければ、小說せうせつの禁止きんしについて論ろんじて見みようと思おもひます、少すこし考かんがへもありますから」と後うしろを顧かへりみた。
「ぢや、それを書かき玉たまへ」と、編輯長へんしうちやうは卒氣そつけない返事へんじをする。
彼かれは筆ふでを嚙かんで一二行ぎやう書かいたが、次つぎの句くが出でて來こんので、原稿紙げんかうしを丸まるめて反古籠ほごかごへ投なげ込こみ、案あんを立たて直なほした。机つくゑの左右さいうでは草山くさやまや佐々良さゝら、それに編輯長へんしうちやうも加くははつて競馬けいば談だん株式かぶしきの話はなし。
彼かれはつい﹅﹅四邊あたりの話はなしに氣きを取とられ、筆ふでが更さらに墓取はかどらぬ間うち、時計とけいは一回轉くわいてんする。「何なんでおればかり急いそがしんだらう」「社長しやちやうはこの寒さむさに競馬けいばに行いつてる」と、云いふやうな考かんがへが、四邊あたりの話聲はなしごゑに和わして頭あたまに浮うかぶ。
「黑塚くろづか君くん、もう三十分ぷんですよ」と、編輯長へんしうちやうが急せき立たてる。
彼かれは慌あはてゝ何なにが何なにやら分わからぬながらに文字もんじを臚列ろれつし、一段だん半はん程ほど書かきなぐつた。これで一日中にちゞうの大役たいやくが終をはり、二三時間じかんは手てが隙すく。で、ストーブに近ちかよつて、冷つめたくなつた天てんドンを食くつた。働はたらいて食くふ甘うまさを感かんじた。飯めし一粒ひとつぶも殘のこさない。
ストーブの向むかうの薄汚うすぎたない新聞しんぶん臺だいには女をんな記者きしやが居ゐる。何時いつもの通とほり地方ちはう新聞しんぶんの切拔きりぬきをしてゐる。彼かれは何時いつもの通とほり「哀あはれなる女をんなよ」と思おもつた。もう結婚けつこん期きを過すぎて顏かほに艶つやがなく目めにも力ちからがないと思おもひながら、その赤あかい房ふさのついた可愛かあいらしい鋏はさみの動うごくのを見みてゐた。
「この方かたが御面會ごめんくわい」と、突如だしぬけに給使きうじが名刺めいしを出だした。彼かれは言葉ことば少すくなに腮あごで指圖さしづした。しかし椅子いすから立上たちあがるには少すこし間あひだがあつた。女をんな記者きしやは切拔きりぬきを持もつて無心むしんに彼かれを見みて席せきを轉てんずる。彼かれも無心むしんに見みて應接所おうせつじよへ行ゆく。
來客らいきやくは頰髯ほゝひげの見事みごとに生はへた男をとこ。彼かれを見みると面相めんさうを軟やはらげ、吸すひかけの卷煙草まきたばこを火鉢ひばちに突込つきこみ、
「どうも御多忙ごたばうの所ところを」と恭うや〳〵しく腰こしを屈かゞめ、「何なに新聞しんぶんの鶴見つるみさんが貴下あなたにお願ねがい申まをせといふことで」
「はあ、何なんの御用ごようで」
「實じつは今日けふの新聞しんぶんに私わたしの學校がくかうの事ことが出でて居をりますが、あれは事實じゞつ相違さうゐで御座ございましてな」と、ぼつ〳〵その理由りいうを說とき出だした。
「ハア〳〵」と、黑塚くろづかは身みを入いれて聞きいてもゐなかつたが、相手あひてが口くちを閉とぢるのも待またず、「しかし貴下あなたのお望のぞみ通どほりの正誤せいごも出だせん、貴下あなたの方はうで新聞紙しんぶんし條例でうれいによつて、取消とりけしでもお出だしなれば格別かくべつ」と、目めを据すゑて嚴然げんぜんとして云いふ。彼かれの顏かほにも活氣くわつきがあつた。
「ですが取消とりけしだけではどうも」と、髯ひげは容易ようゐに納得なつとくしない。二三度ど押問答おしもんだうの後のち、黑塚くろづかは、
「この新聞しんぶんは徹頭てつとう徹尾てつび責任せきにんを以もつて書かいてるんですから、輕々かろ〴〵しく正誤せいごも出だせません」と斷言だんげんして、「少すこし用事ようじが殘のこつてますから、これで」と、輕かるく會釋ゑしやくして應接所おうせつじよを出でた。
草山くさやまはもう帽子ぼうしを被かぶつて編輯室へんしうしつの戶口とぐちに立たつてゐたが、
「黑塚君くろづかくん、君きみを捜さがしてたんだ、一寸ちよつと話はなしたいことがある」と柔やさしく云いつて、應接所おうせつじよへ連つれて行いつた。黑塚くろづかはポカンとして髯男ひげをとこの座すはつてた椅子いすに腰掛こしかけた。
「別べつに急いそいだ話はなしぢやないんだが、君きみどうだね、三面めんへ來きて吳くれちや、實じつは三面めんも少すこし改良かいりやうするので、君きみに助たすけて貰もらうと至極しごく都合つがふがいゝんだ」
黑塚くろづかは不思議ふしぎさうにヂロ〳〵相手あひてを見みて、「だつて僕ぼくは二面めんの方はうがいゝ、政治せいぢや敎育けういくに關係かんけいした方はうが興味きようみが多おほい」と、自分じぶんでも信しんぜぬことを云いふ。
「しかし、編輯へんしうをやつてゝは政界せいかいのこともよくは分わかるまいし、君きみの素養そやうから云いつても三面めんの方はうが適てきしてるぢやないか、相互おたがひのためだ、一ひとつうん﹅﹅と云いつて吳くれ玉たまへ……尤もつとも今いまが今いま返事へんじをしなくてもいゝがね」と、草山くさやまは杖つえで床ゆかを叩たゝきながら、少すこし俯首うつむいて云いふ。
黑塚くろづかは、相互おたがひの爲ためと云いふ言葉ことばを不快ふくわいに感かんじ、「でも僕ぼくにや今いまの受持うけもちがいゝ、少すこし抱負はうふもあるから」と云いつて、腹はらでは何なんでこんな男をとこの下したに使つかはれるものかと力りきんだ。
「さうだらう」と輕かるく首背うなづいて、「けれどね、實じつは何なんだよ、主筆しゆひつもそれを望そのんでるんだよ」
「主筆しゆひつが」と、黑塚くろづかは目めを尖とがらせ、「何なにか僕ぼくに落度おちどがあるんかい、」
「何なに、さうでもあるまい」と、あやふや﹅﹅﹅﹅に云いつて、强しいて笑顏えがほを造つくり、「まあ、何時いつかゆつくり﹅﹅﹅﹅話はなさう、どうだいビールでも呑のみに行ゆかんか」とお愛相あいそに云いつた。
「いや、僕ぼくはまだ仕事しごとが殘のこつてる、君きみのやうに早はやく歸かへれるといゝけれど」
と、黑塚くろづかは編輯室へんしうしつへ歸かへり、机上きじやうに堆積たいせきせる外交ぐわいかう記者きしやの齎もたらした議會ぎくわいの記事きじを添削てんさくした。粗末そまつな原稿紙げんかうしの曖昧あいまいな筆蹟ひつせきを辿たどつて「國家こくか十年ねんの大計たいけい」だの、「満面まんめん朱しゆを濺そゝいで演壇えんだんへ上のぼり」だのと元氣げんきのいゝ文句もんくを見みてる中うちに瓦斯がすがつく。
彼かれは硯箱すゞりばこを仕舞しまふと同時どうじに、草山くさやまの言葉ことばが急きふに毒氣どくきを帶おびて浮うかんで來くる。「彼奴あいつの中傷ちうしやうだらう」「あんな奴やつの下したに使つかはれてなるもんか」と反抗心はんかうしんを起おこしてゐた。
社員しやゐんは一人ひとり減へり二人ふたり減へる。
彼かれは暫しばらく机つくゑを離はなれない。反抗心はんかうしんは次第しだいにゆるんで﹅﹅﹅﹅手賴たよりない氣きになる。
「そうだ、今日けふは綾瀨あやせを尋たづねよう、彼かれは我黨わがたうの士しだ、僕ぼくに同感どうかんして吳くれるに違ちがひない、草山くさやまのやうな俗物ぞくぶつぢやない」と立上たちあがり、今いま刷上すりあがつた初版しよはんの新聞しんぶんを取とつて、自分じぶんの書かいた慷慨的かうがいてき論文ろんぶんを讀よみ〳〵階下したへ下おりた。下駄箱げたばこの前まへに社長しやちやうが立たつてゐて、使方つかひかたが草履ざうりを出だしてゐる。競馬けいばに負まけたのか、社長しやちやうの顏かほは苦虫にがむし嚙潰かみつぶしたやうだ。「何なにか云いはれるか」と、彼かれは胸騷むなさわぎをさせ、恭うや〳〵しく會釋ゑしやくして、コソ〳〵戶外そとへ出でた。
五六間けん前さきには、女をんな記者きしやが白しろい肩掛シヨールを纏まとうて步あゆんでゐる。彼かれも同おなじ道みちを取とつた。埃ほこり臭くさい風かぜが萎しなびた路傍ろばうの柳やなぎを吹ふいた。