空想
Reading edition
妹、お兄さん、今度お出しになつた繪の評が今日の新聞に出てゐましたわね。
兄、(一寸驚き)出てゐた。お淸さんはあれを讀んでどう思つて。
妹、妾、嬉しゆう御坐いましたわ。
兄、なぜ、あんなに惡口云つてある評を見て嬉しかつたの。
妹、だつてお兄さんの繪が高尙過ぎてわからないのであんなことを云ふのでしよ、妾あの評を讀んでお兄さんはほんとに豪い方なのだらうと思つてよ。
兄、有難たう。しかし僕にはあの評は心ぼそかつた。
妹、なぜ?
兄、だつてあヽ見えると云ふことはアヽトが下手だからだと思つたので。
妹、だつてお兄さんがあれを出品なさる時、世間の奴、この繪を見てきつと惡口云ふだらう。この繪の價値はわからないだらうからな!、とおしやつたでしよ。
兄、そりや、云つたさ、しかしまるで豫期してゐない所に敵が出たのだからね、僕のあれを出して攻擊されると思つたのはあの點ではなかつた。物好きだ、新らしがつてゐる輕薄だ、才でやつてのけてゐる。そんな攻擊はされる心算はなかつたのだ。僕は寧ろ不器用だ、筆の使ひ方を知らない、色が不快だ、餘りにむきになりすぎてゐる。藝術品じやない。と云ふ攻擊を待ちもうけてゐたのだ、攻擊が前から來てくれたなら自分は得意になつたらう。しかし攻擊は後ろから來たのだ、豫期しない所から來たのだ、批評してゐる人が可なり名のある、公平な人だけに何んだか不安なのだ。ほんとにさう見えるならば自分の精神の力と云ふもの、自分の人格と云ふものが疑はれてくるのだ。
妹、そんなことはありません。あの繪に感心した人があるじやありませんか。
兄、感心してくれたのは親友と素人だ、ひいき目で見る人と、繪のことがわからない人だ。
妹、しかし素人の方が反つてわかるものだとお兄さんは何時かおしやつたではありませんか、反つてとらわれてゐないからつて、
兄、しかし素人はこけおどしにおどされることがあるからね。
妹、あの畵にこけおどしがあつて、
兄、どつか變つた所がこけおどしになつたのだらう。
妹、そんなことはありませんわ、妾、あの批評を書いた人を何時かお兄さんがほめておゐでヾしたから有望な方と思つてゐましたが、あの批評を見て矢張り、普通の方と思ひましたわ、
兄、どうして、
妹、それだつて、あの畵の精神がわからないのですもの。底の力と、表面だけの力の見わけの出來ない人なのですもの、あの繪に何處に輕薄な所があるでしやう。
兄、それはおれだつてないと思ふ。その畵のどの一ハケも僕は全心で書いた。全身の力を筆さきにあつめて書いた。しかしおれの全身の力は存外弱いものかも知れない。
妹、そんなことはありませんわ、それに物好きだとか、新らしいがつてゐるとか云つてゐるのを見ると、おかしくなりますわ、物好きな所が何處にありましやう、新らしがつてゐる所が何處にありましやう。
兄、そりや畵いた時そんな氣は少しもなかつた、他人とかわつた所があると云ふことは知つてゐた、しかし古い新らしいと云ふことは眼中になかつた、自分は自分の個性に最も忠實なものを畵題にとつた、それをかくことに全身の力をそヽぐことの出來る畵題を撰んだ、畵題の古い新らしいは自分の問う所ではなかつた、しかし他人にさう思はれるのは、自分の全身の力が弱いからじやないか知らん。
妹、うそよ、そんなことはありませんわ、批評書いた人のさもしひ心からそんな想像をしたのですよ、妾、中でも『古い畵題をとつて新らしいものと思つて得意になつてゐる作者のお目出たいのが浦山しかつた』と書いてある所を見た時に、妾、書いた人を輕蔑しましたわ。
兄、しかし僕はあれを畵いた時にはそんな氣はなかつた、たヾ夢中でかいたが、出品する時には新しい所があるのを得意にしてゐたのだ。
妹、しかしそれは畵題じやないのでしよ、個性の顯はし方のアヽトにでしよ。よくお兄さんがおしやつてゐらしやるやうに。其處に氣がつかないのですもの、お目出たいわ、
兄、お淸さん見たやうに云へば何でもないが、僕はもう少し批評してゐる人を信じてゐるのだ。それ以上に自分の人格の力を疑つてゐるのだ。
妹、なぜ。
兄、だつて、自分の人格の力があの畵には露骨に注ぎこまれてゐる、注ぎ込み方の批難ならいヽが、その自分の人格の力が露骨に出てゐる作品が、輕薄に見えると云ふのはなさけないじやないか。
妹、先入主があつてきつと感じられなかつたのですよ。
兄、それ程自分はあの批評家をにぶい人とは思へないのだ。
妹、思ひちがいもありますわ、しかしあの批評家は偉い人じやなくつてね、きつと、少くも外面きりわからない人ね。
兄、もしさうならいヽけど。
妹、さうですよ〳〵、お兄さんの作に特色があるのを借り物からくる光だと思つてゐるなんて偉くない證據よ。根本のわかる人じやないのよ、あんな人の批評で自分を疑ふなんてお兄さんに似合ないわ。
兄、しかし僕と利害關係の全くない畵のわかる人が三四人も同じやうな攻擊をするのだもの、さう見えるのがほんとうの氣がしてくる、自分の批判は自惚から來るものと思へてくる。
妹、そんなに色々の人が、今日の新聞のやうな批評してゐるの、なほ面白くつてね、しつかりおしなさいよ、なぜお兄さんはその批評をお見せにならなかつたの。
兄、お淸さんの信用をおとすのがいやだつたから。(笑顏する)
妹、まあ、そんな批評で信用をおとすと思つてゐらつしやるの、又妾をだましてまで妾に信用されたいの。
兄、弱いからね。
妹、ほんとに弱いのね。
兄、しかしほんとは强いのだよ、僕もお淸さんと同じやうに僕の畵を惡口した人を輕蔑してゐるのだよ、しかし自惚からかとそれが心配なのさ。
妹、そんなことはなくつてよ、何人惡口云つたつて妾はお兄さんは最後の勝利を得ると思つてゐてよ。
兄、どうしてさう信じられるのだらう。
妹、妾にもわかりませんわ、しかしきつとさうよ、時がたつとわかるわ、だから今惡口云はれた方が氣持がいヽわ。
兄、僕もさうも思ふのだ、惡口を云はれない時は自分の作が平凡なのだと心細くなることさえある。
妹、どうしてさう他人の批評が怖いの。
兄、僕には僕をはなれて公平に僕をみることが出來ないと思ふから、それに他人相手の仕事だからね。
妹、さうね、しかし眞價はいつかわかるわ。
兄、その眞價が時々心配なのさ。
妹、眞價通りにとられヽばいヽじやありませんか。
兄、さうだね、ほんとにさうだね、しかし眞價を自分は買ひかぶつてゐるからね。
妹、買ひかぶつてゐるのかどうかはわかりませんわ、妾、お兄さんは自身をもつと買ひかぶつていヽと思ひますわ。
兄、お淸さん有難たう、お淸さんがゐるのでどれだけ氣丈夫か知れない。もしお淸さんがゐなかつたら、どんなにさびしいだらう。僕が僕を信じられなくなつた時お淸さんがゐなかつたらどんなに淋しいだらう。僕になにか後(のち)にのこるやうなものが描けたら、それはお淸さんの御陰げだ。
妹、そんなことはないわ。
兄、いヽえ、ほんとうにさうです。
妹、さう思つて下されば有難いわ、妾嬉しくつてよ。
兄、僕はきつと自分の道をわき目もふらずに進んで見ますよ。僕にも成算の希望があるのですから、それに向つて。
妹、いらしやい〳〵、ほんとにいらしやい、妾、お兄さんのやうな人の妹に生れたのが嬉しくつてよ。
兄、(淚ぐむ)餘り嬉しいので淚が出ました。
妹、(淚ぐむ)妾も。
兄、貴女がゐなかつたらどんなに淋しいでしやう
* * * * *
彼はかう書いて來て元氣にはなつたが淚ぐんだ。彼にはかう云ふ妹も戀人もないのである。(完) (四十三年十月)
明治四十四年二月十日印刷 發行部數
明治四十四年二月十三日發行 (自一――至千)
著者 武者小路實篤
お | 東京市麹町區麹町二丁目二番地
め | 定 發行者 河本亀之助
で | 価 東京市麹町區麹町二丁目九番地
た | 六 印刷者 藤田千代吉
き | 十 東京市麹町區麹町二丁目九番地
人 | 銭 印刷所 千代田印刷所
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發行所 東京麹町二の二 洛陽堂
Transcriber's Notes(Page numbers are those of the original text)
原文 磒石(p.19 and p. 20)
訂正 隕石
原文 馬鹿氣でゐる(p. 49)
訂正 馬鹿氣てゐる
原文 己におふたより(p. 50)
訂正 己におたより
原文 書生は(p. 71)
訂正 書生が
原文 失敗 た(p. 75)
訂正 失敗した
原文 密柑(p. 77)
訂正 蜜柑
原文 イリヰツッ(p. 80)
訂正 イリヰッツ
原文 かヽた時(p. 80)
訂正 かヽつた時
原文 笑(わらひ)ひながら(p. 83)
訂正 笑(わら)ひながら
原文 憐れんでゐるか(p. 94)
訂正 憐れんでゐるが
原文 [執にれんが]烈(p. 104)
訂正 熱烈
原文 羹(うらや)ましく(p. 117)
訂正 羨(うらや)ましく
原文 過きた(p. 156)
訂正 過ぎた
原文 斷つなから(p. 162)
訂正 斷つたから
原文 (一寸驚き)、(p. 199)
訂正 (一寸驚き)
原文 豫期してゐたい所(p. 200)
訂正 豫期してゐない所
原文 豫期したい所(p. 201)
訂正 豫期しない所
原文 おの畵(p. 202)
訂正 あの畵
原文 新らしもの(p. 204)
訂正 新らしいもの
●文字・フォーマットに関する補足
「こ」の下の横棒と「と」を上下で組み合わせた文字は「こと」に置き換えた。
原文p. 53 から p. 54 にかけて二字分の伏せ字が四箇所あるが、他の版の例にならってこのテキストでも「手淫」の字句を補った。
原文ではpp. 180-181 にかけてト書き以外の部分も急に字下げされているが、他の部分の形式にあわせてこのテキストでは字下げをしていない。
原文p. 190 に一行だけ字下げしたところがあるが、他の部分の形式にあわせてこのテキストでは字下げをしていない。
句読点は原文のそれを維持した。