無知萬歲
Reading edition
十八歲許りの若者は机に向つてペンを持つて紙に何か書いて居る、大きな机の上にランプが乘つて居る。
若者の後ろに甲乙の二人の黑い裝束の人が居る、乙は女だ、二人共年は未詳。
若者の机の上に目覺し時計が置いてある、一時の處を指して居る。
甲、幸福を夢みて居る。
乙、『二人に幸あれ』と書いて居ます。
甲、『二人に幸あれ』とは夫婦になる時を指すのでしよう。しかし夫婦になるのが果して二人の幸福かどうかは靑年にはわかる譯はありません。
乙、『自分は不幸でもいヽ、彼女と結婚したい』と書きました。
甲、さうでしよう、然し不幸が來た時靑年は結婚した事を祝するでしやうか。
乙、その時になつて見なければ分らないでしよう。
甲、この靑年は分るつもりで居ます。
乙、『もし結婚することが出來なかつたらたまらない』と書きました。
甲、たまらなくつても仕方がないと云ふ事は知つて居るでしよう。
乙、知つて居ても書きたくないのでしよう。
甲、靑年は今希望に燃えて居ます、早く未來の來ることを望んで居ます。
乙、二人が夫婦になつた時の事を考へて居るのでしよう。
甲、今はなれると信じて居るやうです。
乙、さう信じて居る者は幸ですね。
甲、この男は今の戀が破れるともう一生戀人が得られないと思つて居ます。
乙、貴君(あなた)は第二の戀をする時があるのですよと今云つたら何と云ふでしよう。
甲、怒(おこ)るでしよう、淋しがるでしよう、不快に思ふでしよう。
乙、きつと夢中で打ち消すでしよう、さうして不幸の運命を自分が持つて居る樣に感ずるでしよう。
甲、その第二の戀も破れて第三の戀をする時があると云つたらどうでしよう。
乙、知らぬが佛です。
甲、一寸先は闇を喜んでいヽ譯です。
乙、その第三の戀も破れて
甲、三十歲の時、今彼が最嫌つて居る世間普通の結婚をするのだと云つたら自殺する程まいるでしよう。
乙、その妻は美しくなくつて强情ぱりだと知つたら
甲、さうして一年目に一人の男の兒をあげること
乙、さうしてそれが二月目に死ぬこと
甲、その翌年に又男の兒を產むこと
乙、さうしてその翌年に夫婦別れをすること
甲、さうしてその翌年に美しい自分より十歲若い妻君をもつこと
乙、その細君が一年目に產で死ぬこと
甲、それから一年目に初めて藝者買をしてそれを妾におくこと、それに一人の男の兒が產れるので翌年は本妻に直(なほ)すこと
乙、その女が亂(みだ)らで役者買をすること
甲、さうして繼兒をいぢめること
乙、憎くもあり、美しくもありて細君に就いて悶えること
甲、それから益々道樂をし出すこと
乙、そうして五十二歲で五人の親としてこの世を去ること
甲、その五人の兒の内二人の女の兒は自分の子でないこと
乙、さうして總領が道樂息子になること
甲、二番目のは病身なこと
乙、三番目の子は彼の死ぬ時五歲のこと
甲、長女は十四
乙、次女は七つ
甲、一家は總て亂らな細君の勝手になり
乙、死ぬ時一家の滅亡を豫期しなければならないこと
甲、さうして三十四五まで文士として相當の位置を占めて居たがやがて人から顧みられなくなり、四十位には老ぼれ扱ひをされること
乙、などを知らないので呑氣なことを書いて居ます。
『自分は餘りに幸福な人間である自分の如きものを愛する女はない樣に思ふが彼女は確かに愛して居る、恐らく彼女と自分は夫婦になれるであらう。
世の中に自分程幸福なものがあろうか末恐ろしい氣がする』
と書いて居ます。
甲、末恐ろしいは唯筆先で書いたのでしよう。
乙、世の中に自分程不幸な人があるだろうかと書く時のあることは夢にも知らないでしよう。
甲、知らないことをこの靑年の爲めに祝しましよう。
甲乙、無知萬歲!
若者ペンを置きて立ち上がり、
若者、神樣どうか我等二人に幸を與へて下さい、二人を夫婦にして下さい。
甲乙互に見かわす。(完) (四十二年九月)