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お目出たき人

生れなかつたら?

Reading edition

『自分がもし生れなかつたら?』

かう中田豊男が考へたら頭がむしやくしやしてきた。豊男は自分の生れてきたことは偶然のことを萬を萬乘した程經驗してきたことヽ考へてゐる、豊男には自分の生れたことが奇蹟のやうに思はれるのである。しかし生れなかつた自分を想像することは豊男には出來ないのである、生れぬ前は自分ではない。いや母の腹に宿らぬ前は自分ではない、自分と云ふものはなかつたのだ。これは豊男には當然なことヽ思へるが、どうもさう考へると一種いやな、なさけない感じがする。自分と云ふものヽ存在が必然であつてほしいのだ、自分なる個性は運命によつて明治十八年五月十二日何時何分にこの世の光を見るべく定められてゐてほしいのだ。さうでなければ自分の個性は無意味な、ふとしたはづみに生じたものと思はなければならない。思はなければならないことを知つてゐるが豊男には之が嬉しくなかつた。

自分の母が父の處へ嫁したのも豊男には偶然に思へる。第一母や父が生れたのも偶然なことを萬を萬乘した程かさねてきたものだ。父方の祖父祖母、母方の祖父祖母の生れたことも偶然のことを萬を萬乘して來たのだ。又之等の人の夫婦になつたのも偶然なことだ。

豊男は不快ながら父の中にゐた幾億の精虫の内にこの世に生を得たものは一つきりない、その一つが自分の半身だと思はないではゐられなかつた。父母の方にも同じやうなことが云へると思つてゐる。

『自分がもし生れなかつたら自分はこの世にゐない』

豊男はこんな答を與へて見たがます〳〵頭がむしやくしやした。

『生れない許りではない、自分は宇宙に存在しなかつたのだ。さうして他の人が生れたかも知れない、その方がありさうなことだ』

かう豊男は答を與へたが、どうも自分の求めてゐる答とは非常にかけはなれた答としか思はれなかつた。豊男はます〳〵じれて來た。

『第一そんなことを考へるのが馬鹿氣てゐるのだ。自分は生まれたのではないか』

豊男はかう思ひかへして見たがどうももの足りない。

『餘り偶然すぎる』

かう豊男は獨言したが、なんにもならない。

『人類には意義があるかも知れない、しかし個性には意義はない。生れたつて生れなくつたつて大した差はない。死なうが生きやうが大した差はない。自分が他人だつて大した差はない、自分が生れないで永遠にこの世に生れさうもない他のものが生れたとて親は我が兒と愛するであらう。さうしてその兒は自分の生まぬ子を生み、自分の存在したために生れる自分の子孫の變りに永遠に生れることなき子孫が――個性がこの世に生れるだらう』

豊男はこんなことを考へて益々頭を亂した。

とくことの出來ない謎をかけられた者のやうに、こんがらかつた糸を解かうとしてとけない人のやうに、豊男はやけくそを起して

『勝手にしやがれ!』と心に叫んだ。

しかしまだとけない問題に未練をのこして頭をこんがらかした。

『地球が出來なければ自分は生れなかつたのだ』豊男はもうじつとしてゐられなくなつた。不快でたまらない、室を步きまわつた。

『生れなかつたらこんなことは考へなかつたらう、步きもしないだらう。飯も食はないだらう。呼吸もしないだらう、學校にもゆかなかつたらう。彼女も戀しなかつたらう。苦しみも悲しみも喜びも樂みもなかつたらう。何にもなかつたらう。しかし地球の上は今と同じやうだらう。さうして恐らく彼女は生れてゐたらう。さうして外の男と戀しあつたらう』

豊男はどうも考へるべからざることを考へてゐるやうな氣がした。さうしてとくべからざる謎を解かうとする自分の僭越な罪の罸を受けてゐる氣がした。

それで不意に氣をまぎらさうと帽子をかぶつて往來に出た。自分と同じやうに偶然なことを萬を萬乘したほど經驗して生れて來た人に往來で澤山あつた。老人や子供、男や女、美しい人や醜い人。立派な風をした人や粗末な風した人。皆自分の生れて來たことを當然なことだと云ふ顏して步いてゐる。

豊男はそれを見て同類が多いと思つた。さうして少しは氣がおちついた。しかしまたヾめだ、友の處へ行つたら不在だつた、それで戀人の處へ行つた。

戀人は自家に居た、豊男の顏を見ると笑つた、豊男も笑つた。この時とけなかつた謎は何處かへ行つてしまつた。豊男は二時間計り我を忘れて戀人と雜談した。

さうして歸り路に『もし自分が生れなかつたら』と考へて見たが、そんなことはどうでもいヽやうに思はれた。さうしてそんなことを氣にしてゐた自分がお可笑しく思へた。

『生れたから生れたのではないか。生れなかつたら生れないのではないか。そんなことを考へる手間にどうすれば幸福にくらせるかを考へた方がいヽ』かう豊男は心で叫んで微笑んだ。さうして戀人とつくる未來の家庭を夢みて家路を急いだ。

(四十二年十月)

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