亡友
Reading edition
甲、『あいつ』は自分を天才だと思つてゐた。
乙、『あいつ』は八十迄生きる心算でゐた。
丙、『あいつ』は戀人と家庭をつくることを考へてゐた。
丁、『あいつ』は自分を以て一番幸福な人間だと思つてゐた。
甲、『あいつ』は死ぬまぎわまで自分の未來のことを考へてゐたさうだ。
戊、しかしほんとは死ぬと思つてゐたらしい。
甲、どうだか、
戊、いや思つてゐた。自分が鎌倉に見舞つた時、『あいつ』は例の淋しい笑を見せてかう云つた。さすがの僕もこの頃はよく死ぬやうな氣がする、まだ仕事をしない自分をまさか死なしはしまいと思はうとするが、それは何にも益にたヽない。有爲な人が若い内にいくらでも死んでゐる。しかし死ぬ瞬間まで自分は必ず死ぬとは思はないだらう、しかし必ず死なヽいと思つたことはこの病氣になつた以來一度もないと云つた。
丁、それはさうだらう
戊、それで僕はさう云へば僕でもさうだと云つた、さうしたら彼は冷笑するやうに、さうかも知れない、しかし程度がちがう、丈夫な人は死と云ふ問題に痛切にふれることは出來ないやうに出來てゐる、死ぬとか死なヽいとか云ふ問題がさう長く頭を支配することは出來ない、と云つた。
乙、うん
戊、僕はかう云はれた時、あいつを思はず見た、骨と皮になつてゐる、自分もこれは死ぬなと思つた。おそかれ早かれ死ぬなと思つた。
甲、僕逹だつておそかれ早かれ死ぬだらう、
戊、がやすのはよしてくれ玉へ。程度がちがう。自分は仕方がないから話をかへた、さうして今君の望は何だと何に氣なく聞いて見た。
甲、うん。
戊、あいつは又淋しく笑つた。さうして何だと思ふと反對に僕に聞いた。仕事かと聞いた、首を橫にふつた。何だと僕は又聞いた。
乙、うん、
戊、例の人に介抱(かいほ)してもらうことだ、と彼は笑つた、
乙、うん、
戊、それはおれの力にあはないから困ると僕は云つた。さうしたら、君の力にあつても御斷りすると『あいつ』は云つた。『なぜ』と自分はつよくきヽ返した。『肺病だぜ』とあいつは云つた。戀人にかいほしてもらえば接吻もしたくなるからねと彼は笑つた。
丙、悲慘だね、
戊、悲慘と思ふより僕は悲壯に感じた。あいつは言葉の調子をかへて、自分は例の人の自分を愛してゐてくれたかも知らずにこの世をさるのがなんだか淋しい、しかし今となると、まだ自分の戀の成就しなかつたことが例の人にとつて幸ひだつた。しかし自分には不幸だつた。自分は眞の人生の快樂を知らずに死ぬのだからね、とあいつは云つた。
乙、うん。
戊、死なヽいかも知れないじやないか、僕はかう云つた。あいつは冷笑した。有難たう、しかし僕はそれ程目出たくはない。自分で自分のことを樂天家だとも云つた。目出たい人間だとも云つた。しかし自分は君が僕の死ぬことを信じてゐることを知つてゐる。僕は君に僕と云ふものを思ひ出させる爲にしやべりたいだけしやべらうと思つてゐるのだ、實は自分で自分の死ぬことを迷信してゐる、さうあさはかな同情は今されたくない、僕は之でも自分で勇士だと思つてゐるのだ。
乙、うん、
戊、餘り激するといけないだらうと僕は云つた、すると激さヽないやうにする好意があるなら、すなほに僕の云ふことを聞いてくれ玉へと云つた。さうして『あいつ』は色々のことを云つた。その内にこんなことも云つた。
自分の一番の望みは自分の初戀の女の人と例の人に時々見舞はれることだ。もし何んなら初戀の女の人は夫と一緖に來てくれてもいヽ、例の人は母と一緖に來てくれてもいヽ。自己の名と身体をきづヽけないやうにして自分を時々見舞つてほしいのだ。自分は决して戀人に云ふやうなことは云はないだらう。たヾ無邪気な話がしたいのだ、死と云ふものを忘れて喜びに醉ひたいのだ。君とかうやつて話してゐると氣持がいヽ、時々は夢中になるしかし淋しい、それに理窟ぽくなつていけない、死と云ふものを感じてゐけない、夢中になつて華かに醉ひたいのだ、しかしそれは例の空想だね、出來ないことだ、しかし自分は樂天家だから初戀の人や、例の人が自分の死にかヽつてゐることを聞いて見舞つてくれることはあり得ないことではないやうな氣がしてゐる、と云つて淋しく笑つた。二人に手紙を出したらどうだと僕は云つた。出來ないね、とらはれてゐるのかも知れないが出來ない。それに手紙を出しても來るわけにはゆくまい。たヾ來てくれはしないかと思つてゐるのだ。これが中々の慰藉になるのだ、ハンネレのやうに死ぬ時には二人の夢を見て死ぬかも知れない。とあいつは笑つた。
甲、二人は彼の死ぬまでに彼の處に來たかい。
戊、來るはづがあるものか。
丁、二人の夢を見て死んだらうか。
乙、そんなことがわかるものか。
戊、しかし餘程樂な死だつたさうだ。
丙、しかし隨分それまでに苦しんだらうね。
甲、煩悶もしたらう。
乙、隨分生命に執着してゐた方だからね。
乙、しかし死んでしまえば同じことだね。
戊、同じだらうか。
甲、同じぢやないか。
戊、………さうだね。(完) (四十二年十一月)