二人⦅拙著『荒野』より⦆
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こヽに男と女があつた、二人とも戀を知りそめる年頃である。二人は見たことはあるかも知れない、いや確にある。男の十三、女の十の時二人は往來で逢つたことがある。その時男は可愛らしい女と思つた、女は立派な男と思つた。しかし二人はそのことを忽ち忘れた。夢にも見なかつた。二人の家は相去ること一町半。
無論二人は話したことはない、名も知らない、第一男は女のこの世にゐることすら知らない、女は男のこの世にゐることすら知らない。しかし二人の間に全く關係はなかつたらうか。意識にのぼらぬあるものが二人の間を結びつけてはゐなかつたらうか。
男の理想の女として心に描いてゐる女こそ、その女ではないだらうか。男を假りに一郞と名づける、女を靜と名づける。一郞のぼんやり考へてゐる理想の女をつくつて、生きた女としたならば靜が出來はしないだらうか、靜の理想の男を假りに全知全能の神が作つたとしたならば一郞が出來はしまいか。
二人は畵家ではない、理想の人の顏を想像することは出來ない。二人は彫刻家ではない理想の人の骨格を知らない。二人は詩人ではない理想の人の性質を知らない。しかし二人の意識せぬあるものが戀ひしたふものがある、それは一郞にとつての靜、靜にとつての一郞であつた。
一郞が何故か知らぬが、何者かにあこがれ淋しい氣がする時、靜も何故か知らぬが、何者かに憧れる氣がして淋しくなる。
靜が不意に愉快を感ずる時、一郞も理窟なしに愉快になる。二人の間には何ものかあるに違ひない。同じ震動をして音を發するものヽ一つが音を發する時他のものも知らずに音を發する。二人の間は恰もこのやうであつた。
しかし二人はそのことを知りやうはずはない、全く知らない、不意に淋しくなり、不意に愉快になることを不思議とすら思はない。
ある日偶然に二人は往來で逢つた。よささうな人と一郞は思つた、よささうな方と靜は思つた。この時二人は戀に落ちたのである。しかし二人はそれを知るはずはない。一郞は靜のことの頭をはなれないのを不思議に思ひ、靜は一郞のことの頭をはなれないのを情けなく思つた。二人は互に忘れやうとした。しかし忘れやうとすればする程思ひ出される。二人は自分のいくぢのないのに愛想がつきた。
その夜、一郞は靜のことを、靜は一郞のことを忘れやうと思ひつヽ考へて、禁斷の果を味ふやうに不安と喜を感じた。二人は共に嚴格なる家に人となつて戀は耻かしいもの、罪なものと思つてゐる。
二人は互に名を知らない、住んでる所を知らない。しかも姿を思ひ出さうと思つてもどうしても姿は浮んでくれない。しかし忘れることは出來ない。憧れる心はいや强くなる。以前は何故か知らずに何者かに憧れたが、今は何故かは矢張り知らぬが、憧れるものに目鼻が出來た。憧れるものが意識にのぼつた。
勿論二人はこのことを正しいことヽは思はなかつた、麗はしいことヽも思はなかつた、當然のことヽも思はなかつた。互に共鳴してゐると云ふことは夢さら知らない。
其後同じ所で二人は二三度逢つた。逢ふわけである、一郞は何ものかに憧れる時、ひとりでに足が其處に向く、靜もその時そこに我れ知らず足が向くのであつた。しかし意識にのぼらぬあるものが、二人を其處に導くので多くは意識の爲にさまたげられて、二人は十に一つも逢えなかつたのである。
二人の思ひはいや增さつた。二人は淋しい所を好むやうになつた。二人は一層陰氣になつて思ひに耽るやうになつた。
一郞はどうしてかく迄自分は女々しいかと、自分を鞭打ち勇氣をつけやうとする。靜は又どうしてこんなにあの方を思つてゐるのだらうと時々自分を責めて忘れやうとする。しかしその甲斐はない、やヽともすると二人は戀しく思ひ、なつかしく思ひ、淋しい感じがして淚ぐまれる。さうかと思ふと、愛してゐるにちがひない、愛してゐらつしやるにちがひないと思はれ、ひとりでに微笑まれることもある。嬉しさうな顏をするかと思ふと、すぐ寂しい情けないやうな顏をする。しかし二人はこのことを人に知られることを恐れた。して耻かしいことのやうな氣がする。
意識にのぼることならば二人はどうかしてヾも壓へつけることが出來たであらう。しかし二人の戀し、なつかしの情は意識にのぼらぬ所よりくる。『どうしてこんなに』とは二人の自問して自答し能はざる問題であつた。
一日靜が机に向つてぼんやりしてゐる時、母は心配さうに靜に『お前この頃どうかおしではないか』と聞いた。靜は何氣なく『いヽえ』と云つたが、母の去つた後、一しほ悲しくなつて机に泣き伏した。母に心をうちあければよかつたとも思つた。暫くして不意に心をとりなほし、一人我家を出て例の所へ行く。はからずも一郞に逢つた。二人の目は合つた、はなれた、又合つた、又はなれた。二人は通り過ぎた、二人は夢中に數步步いた。一郞がこわ〴〵ふり返つた時、靜はふり向きたいのを耐えた時であつた。靜は外のものを見るふりしてふり返つた時は一郞の頭の元に戾つた時であつた。
二人は嬉しさを感じた。しかし互に愛してゐるとは確かには思はれない。二人は心をうちあけた事はない。目と目と語ることを知らない。心と心の語ることはなほ更知らない。二人は嬉しい内に淋しく悲しく感じた。
かくて一年は過ぎた、二年は過ぎた。
二人の間は依然として互に戀しなつかしと思ふのみ、相手の自分を愛することは依然として疑問である。二人は二年の間にいく度か目と目で話はしたらう、心と心と話はしたらう、しかし互に相手の名も知らず、家も知らない、心も知らない。
二
戀に悶えるものにとつて二年は短くはない。一郞は屢々父か母に自分の心をうちあけやうと思つたが、まだ大學にも入らぬ身もて、それに相手が自分を愛してゐることすらわからぬのに、その女の人の性質もしらぬ自分が、話をしたことすらない自分が、どうしてその女を心から愛してゐると親に云へやう。取りあげられずに笑はれるにはきまつた話と、たヾ心に秘して悶えてゐた。
靜も亦、自分の心を母に打ち明けやうと時々は思つたが、相手の方の名も知らず、性質も知らずたヾ往來で時々逢ふとより外說明のしやうもない人を戀しと云ふはいくら母に對しても氣まりがわるく。それに云つたからとてどうかなると云ふことでもないと思へば一人心に秘して悶えてゐた。
二人は時々はあてもなく神にお願ひをしてみることもあるが。自分ですら痴情としか思へぬことを、神樣が罸し玉ふことはあらうとも、きヽ玉ふことはないとしか思へない。二人は考へれば考へる程、忘れなければならないと思ふが、もと〳〵意識上のことではないから、忘れることも出來ない。色々のことをして思を外に轉じやうとするが、何時のまにか、二人の知らないあるものは相手を抱かんと捜してゐる。
二人は胸の悶を慰める爲に快活を裝ふて見るが、悅ぶは親ばかりで。裝ひのとれる時、なほさらさびしい。月の夜は同じく庭を散步して淚を流すこともあるが、一町半程はなれてゐる所に同じ思の人があるとは、夢さら思へない。電話で遠くの人と話すことの出來るのを疑ふ人はないが、意識にのぼらぬものを人は知りやうはずはない。
二人とてお互に愛してゐないとは思へないのである、しかしそれは痴情の仕業と心得てゐる。得手勝手に無理にさう思つて自分の心を慰めてゐるのだと思つてゐる。くり返し云ふ、目と目と話すこと、心と心と話すことは二人は知らないのである。二人は學校の稽古より外何ものも學ぶことを欲せぬものである。
二人は逢ふ前には今度逢つた時には向ふの人の自分を愛してゐるかゐないかを見きはめやうと思ふが、偶然に逢ふとびつくりして何もかも忘れてしまう。我に歸つた時は二人の通りすぎたあとである。かくて又一年すぎた。
靜の齡は十九になつた。母も父も靜の結婚のことを心配する齡となつた。しかし二人の間の有樣は依然として元の通りである。二人はたヾ自分が相手を愛すると云ふことのみ明らかになつて、相手が自分を愛すると云ふことは益々疑問となる許り、考へれば考へる程わからなくなる、末には二人は相手の人のよしあしすら疑ふやうになつた。それに色々と考へれば自分の愚かなることが明らかに目につき、自分で自分を冷笑することすら時々ある。理性の前にこの感情を持てゆく時、二人は赤面して忘れなければならないと思ふ。
或時靜に緣談がおこつた。靜はたヾそのことを否定した。しかし否定する理窟はなかつた。靜自身も否定する理窟を見出せなかつた。兩親は惡くない緣と思つたが、愛する靜がいやだと云ふのだからその緣談を斷つた。斷つたあと靜は何となく馬鹿なことをしたと思つた。もう少しさきの人を見てからことわつてもよかつたと思つた。靜の斷つた原因は、さきの人がいやだつたからではない、一郞のことを思つてゐたからである。その緣を斷つたから一郞と一緖になれるとは夢さら思はないが、そこにわからぬあるものがあつて思慮もなく靜をして斷らしたのであつた。されば考へると何となく惜しいことをしたやうな氣がする。
それから三四ケ月たつて又緣談が靜の身におこつた。今度は前より父は進んでゐる。しかし靜は今度も理由なしに氣がすヽまない。父は色々とさきの人の身分のいヽこと、學問のあること、眞面目なことを說いた。靜は父の云ふことを皆な信じて、父のゆけと勸めるのを至當のことヽ思つた。しかし何となくゆきたくない、いやだとも斷言をしなかつたが、靜のそぶりは明らかにゆくことを欲しないと云ふことを示した。それに幸に母が占に見てもらつた所が、年まわりがわるいと云はれたので、母も進まない。遂に母の靜があんなにいやがりますからと云ふので、父も不承々々に承知してその緣談を斷つた。斷つて見ると靜にはなんとなく惜しいことをしたやうに思はれる。さうして一郞のことをそんなにまで考へてゐることが、いかにも愚かに考へられてきた。話したこともなく名も知らず性質も知らぬ男の人を、なぜこんなにまで自分は思つてゐるのだらう。その内に自分も年をとる、あの方も結婚なさる………と考へられてくる。靜は自分を馬鹿だと思はざるを得ない。
その年の九月、一郞は法科の一回生になつた。
二人の心はます〳〵あせる。一郞は靜がもう誰かの妻となるべき年になつてゐると思つてゐる。しかし心に思うことを云ひ出す氣にはなれない。二人は前よりもしげく例の通に行くが、二人は今や意識に支配されて例の通に行くのであるから、調が狂つて一郞が失望して門へ入る時、靜がいら〳〵して門を出る時であつたり、靜が泣きたい思をして己が室に入つた時、一郞が靜を見んとて下駄をはく時であつたりして、二人は鶍の嘴のくいちがうやうに、くいちがうことが度々あつた。愛してゐないのだ、愛してゐらつしやらないのだと二人は時々嘆息する。
かくてその年も過ぎた。
三
一郞には靜が自分を愛してゐないとも思へるが、全然愛してゐないとは益々思へなくなる。あのまなざしは必ず自分を愛してゐるに違いないと時々は思ふのである。愛してゐるならば一緖になりたいと云ふことを自分から云ひ出さなければならないと思ふ。さうして云ひ出さないのはたヾ人から笑はれるのがいやだからである。あの女が自分を嫌つてゐるならば云ひ出しても斷られるだけであの女に迷惑をかけるわけはない。それを云ひ出されないのは自分が世の人を恐れるからである。自分を知らぬ世の人を恐れるからである。自分を知らぬ世の人に笑はれるのを恐れてあの女と自分の幸福を捨てるのは愚かなことであると思ふ。時にはあの女の方から一緖になりたいと云つて吳れるといヽがと一郞は思ふこともある。しかしそれは望めぬことで、望めた時は一郞の理窟がその女の厚顏なのを罵倒する時である。そのことを一郞も知つてゐる。一郞は無風流な男であるが、靜のことを思ふ時新體詩風のものを作ることがある。ある日一郞は偶然に靜に逢つた、その後ろ姿を見送つて自分に夫婦になりたいと云ひ出す勇氣のないことを責めつヽ、我家に歸つて日記に次ぎのことを書いた。
汝が後ろ姿、あはれ。
見送りて思ひぬ
我罪人よ。
我罪人よ、許してよ
我が心知らば
我と共に泣きて
汝は許さん、いとしの汝よ。
しかしかく思ふかと思ふと、又一郞は自分をもて、到底彼女の夫たる資格なきものと思ひ、自分をそれ程までに愛するわけはないと思ふ。さうすると今迄、自分があの女と一緖になることが、あの女を救ふことのやうに思つてゐたのが我ながらおかしくなる。そんなに自分を愛するわけはないと常に終りには一人ぎめにきめて、淋しき笑ひを見せる。
ある日のこと、一郞は今迄にない程淋しく悲しく感じ、机にもたれてと息をついた。その内に目が潤つてくる、淚がとめどもなく流れる、戀しなつかしの情が高まる。今迄にもわけわからずに、よく淋しくなり、一人で泣いたことがあるが、この時程ひどく感じたことはない。一郞は何故か少しも知らない、暫くして淚がとまつた。一郞は人に知らさぬやうに水で顏をふいて例の所に行つて見たが、靜の姿は見えない。常になく自棄になつて我が室に歸つて机に向つてどかつと坐ると、又耐えられなく悲しくなる。氣をまぎらさうと散歩したが、どうも淋しくて仕方がない。耐えに耐えたが、やヽともすると淚ぐむ。さうして靜のことが頭に浮んで追へども去らない。一郞も我れながら愛相がつきた。この時は靜が父と母の勸めに從つて、進まぬ氣と、我儘をすてヽ親を喜ばす爲に身を犧牲にする覺悟を以て、ある人と夫婦になることを承知した時である。夫となる人は靜自身の目より見るも自分にはよすぎる人と思はざるを得ない。無論意識にのぼる所だけでさう信ずるのである。
その後暫くは二人の悶えの時であつた。靜には幾分か理由があると思へたが、一郞は何故か知らなかつた。
或朝一郞は何心なく新聞を見ると我胸を射るものがある。戀しと思ふ人の顏が見知らぬ男の顏とならんでゐる。
一郞は矢張りあの女は自分を愛してゐなかつたのかと數日後悶えの薄らぐと共に思つた。さうして淋しい微笑を見せた。日記をとつて
彼女嫁す、我が知らざる人に、
幸あれよ彼女に!
さはれ。
むつまじくあれ、彼女夫婦、
さはれ。
我祝す、
さはれ〳〵。
と書くと共に、深き淋しさを感じ、又泣き伏した。
その時は靜が、夫に淋しき心を秘して微笑んで見せた時であつた。
四
その後、數年して一郞も妻をもつ身となつた。一郞の妻は十人の見る所、靜よりも美しく氣高き女であつた。
今は靜も一郞も、自分の家庭を以て幸福な家庭と思つてゐる。さうだ意識し得る範圍内に於て二人の家庭は共に幸福なる家庭である。靜の夫は靜の信じた通りよき夫であつた。一郞の妻もよき妻である。
靜は一郞のことを殆んど忘れた。一郞は靜のことを殆んど覺えてゐない。しかし不意に二人は思ひだすことがある、その時二人は若き血に從はなかつたことを常に感謝する。もう暫くたてば二人はお互に思ひ出さなくなるだらう、さうして見ぬ昔に歸るであらう。されど二人の意識にのぼらぬ或者は、依然として共鳴するものヽやうに共鳴するだらう。
二人は今なほ時々淋しさを感ずるのである。何故か知らぬが何者かに憧るヽことがある。さうして一郞の不意に愉快になる時、靜の不意に愉快になる時であり。靜の不意に悲しくなる時、一郞の悲しくなる時である。二人の心の調べは、依然として調和されてゐる。
靜は夫を愛し、一郞は妻を愛してゐる。しかし二人の夫婦の間は、意識なしには感情の調和は望めない。二人の夫婦は意識上の夫婦である。意識にのぼることにて夫婦間になくてはならぬことは皆滿されてゐる。幸に二人は意識し得ないものヽ存在を認めないから今の自分を以て滿足してゐる。
されど、今も二人の感じて知り能はざる或ものは孤獨に泣いてゐる、さうして互に戀ひ慕つてゐる。 (四十年一月)